第一日課 ヨハネの黙示録7章9~17節
第二日課 ヨハネの手紙Ⅰ3章1~3節
福音書 マタイによる福音書5章1~12節
喜びなさい
11月1日は、「全聖徒の日」と定められています。神により聖徒とされたすべての人を覚える日です。すでにこの地上での生涯を終えて天に召された人々を覚える特別の祈りをするにもふさわしい日とされ、多くのキリスト教会で11月1日が主日ではない場合には、11月の第一主日に振り替えて「全聖徒主日」として礼拝を守ります。多くの先に天に召され聖徒とされた方々の御家族をお招きして、共に礼拝を守ることができる恵みを心から感謝いたします。こうしてお写真を並べ、共に礼拝をまもり、それぞれの方との教会での交わり、信仰生活を思い起こすときとなります。
今日の福音書日課は、マタイ福音書、山上の説教の冒頭に記されている「8つの祝福」です。形としては、主イエスが山に登り、弟子たちに向かって、続けて語られたようになっています。しかし実際には、弟子たちの背後には、大勢の群衆がいて、これらの言葉を聞いていました。
幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。
文語訳の聖書では、「幸福なるかな」という言葉で始まっています。原語では、8つの祝福の言葉は、文語訳と同様に、「幸いである」という言葉から始まります。マタイ福音書の山上の説教の初めにこの8つの祝福の言葉を置いているのは、これらが「神の国に入る条件」としてされているからです。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」
「心の貧しい人々」とはどのような人でしょうか。「人のことを考えない自分勝手な人、心の狭い包容力がない人」というイメージを抱きますが、ここではそういう意味ではありません。ルカ福音書では「貧しい人々は、幸いである」と記されているように、「心の貧しい人」とは、物質的な貧しさと切り離した精神的貧しさと言う意味ではなく、実際に貧しい人、財産のない生活に困窮している人も含まれています。「心が貧しい」とは、物質的に貧しい状況にあると、心の中まで貧しくなってしまう状態に陥るとも言うことができます。物質的な貧しさによって無欲になり、何も自分に期待ができなくなってしまうそのような状態です。あるいはこの世の物質的なものにとらわれて本当に大切なものを失い、心が閉ざされてしまっている状態とも言えるでしょう。
では、なぜこのような状態にあることが「幸い」なのでしょうか。それは自分自身にすら何も期待できなくなってしまう人に主イエスは心を留められ、近づいて来られる方だからです。そして主イエスは、「私はあなたの貧しさを知っている。その貧しさをそのままにはしておかない。この世の富ではなく、もっと真実なもので、その心を満たしてあげることができる」と語ってくださっています。イエス様ご自身は、貧しさの中に身を置かれました。「人の子は枕する所もない(マタイ9:58)」と言われています。そして最後には犯罪者と同じように十字架におかかりになりました。パウロは「主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、貧しさによって、あなたがたが豊かになるためです(Ⅱコリント8:9)」と記しています。主イエスは、私たちが自らの貧しさに気づき、心を開き、主の言葉を受け取ることができるように促しておられます。私たちは、心を開き、主の言葉を受け取ることによって、「天の国はあなたがたのものである」という約束を得ることができるのです。
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」この言葉も、私たちの常識、知識や経験を超えた言葉です。悲しい出来事があったときには、誰かに慰めの言葉をかけられるとその悲しみは和らげられます。しかしそのような悲しみの原因となることがない方がはるかに幸せであるように思います。
「慰める」と訳しているこの言葉は、原語では「側へ呼ぶ、呼び寄せる」という意味があります。そこから「助ける、励ます、慰める、元気づける」という意味になりました。ですから「悲しむ人が慰められる」ということは、悲しみのときには、側に立って助け、励まし慰め、元気づけてくださる方がおられるということです。一人ではとても乗り越えることができないような悲しみのとき、側に呼び寄せてくださる方、それは主イエスご自身です。主は悲しみの中にあるときにこそ、側に立って助け、励まし、慰めてくださる方なのです。
「へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」これまで口語訳聖書でも新共同訳聖書でも「柔和な人々」と訳されていた言葉が、聖書協会共同訳から「へりくだった人々」と訳され、戸惑いを感じられた方も多かったのではないでしょうか。「柔和な人」というと「優しくて穏やかな人」という意味にとらえられます。「へりくだる人」というと、「相手を敬い、自分の立場や態度を控えめにする、自分を下にする人」という意味になります。この5節は詩編37編11節の引用とされていて「抑圧されている者、へりくだる者、忍耐する者」と理解されています。この詩編の箇所は、新共同訳聖書では、「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるだろう」と訳され、聖書協会共同訳では「苦しむ人が地を受け継ぐ。彼らは豊かな平和を楽しむ」と訳されています。つまり「柔和な人」とは「貧しい人、抑圧され苦しみの中にある人」という意味があるということです。「柔和な人」とは、貧しさ、抑圧された苦しみの中で、じっと耐え神に望みを抱いている人」と言えるでしょうか。詩編37編8節には「主に望みを置く人こそが地を受け継ぐ」と記されています。「柔和な人」「へりくだる人」というのは、主に望みを抱き、苦しみの中でもじっと耐え、しっかりとした信仰を持ち続けている人なのです。
「へりくだる人」と訳されている言葉は、マタイ福音書では、他に2か所で用いられています。一つ目は、11章29節、「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」私たちは、「柔和で心のへりくだった者」である主イエスによって招かれ、安らぎを与えられています。慰めと励ましに満ちた言葉です。
もう1か所が、21章5節、「シオンの娘に告げよ。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」主イエスがエルサレムに入城された場面で、ゼカリヤ書の言葉を引用しています。イエス様は、力によって世界を変えるのではなく、愛によって世界を変えられる柔和で、へりくだった方であられました。へりくだった方、柔和な方が地を受け継ぐという約束は、だれよりもイエス様ご自身によって真実になったということができるでしょう。
福音書日課の12節に「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と記されています。2回目の「喜びなさい」と言う言葉は「非常に喜ぶ、歓呼する、小躍りして喜ぶ」という意味のある言葉が使われています。
私たちは「幸福なるかな」と8つの祝福の言葉を主から受けています。私たちは死から逃れることはできず、そのときは、必ずやってきます。しかしイエス様は自らへりくだって十字架の苦しみを受けられ、私たちをすべての罪の奴隷から解放してくだいました。そして復活によって、新しい命、永遠の命を約束してくださいました。復活のイエス様は、地上で弟子たちにそのお姿を現された後、天に昇られました。弟子たちは、近くでそのお姿を目で見ることができなくなりました。しかしイエス様は天に昇られるとき、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。地上の世界でイエス様を見ることはできなくても、聖霊を通して私たちはイエス様とつながっていることができるようになりました。そして私たちに祝福の言葉を語り続けてくださっています。主からの祝福を受け、喜びに満たされ、小躍りするほどに喜びに包まれて、感謝して過ごしてまいりましょう。
門司港の旅
先週、月曜日の夕方から一泊二日で門司港に行ってきました。夕方5時に久留米を出ましたので、門司港駅に着いたときには、既に暗くなっていましたが、1914年に建築されたネオ・ルネッサンス様式の駅舎は、復元工事を経て大正時代の姿が甦り、ライトアップされレトロな街全体を象徴しているかのように感じられました。「もじこう」の駅名標はフォトスポットとして人気だそうです。
翌日は、定番「門司港レトロ散策」のモデルコースに従って、旧門司三井倶楽部、旧大阪商船、旧門司税関、北九州市大連友好記念館、はね橋「ブルーウィングもじ」、関門海峡ミュージアムなどを回りました。最後は船で下関の唐戸市場に渡りました。短い滞在時間でしたが、レトロな街並みを十分に楽しむことができました。門司港は、かつては第一次世界大戦の世界景気なども追い風となり、神戸や横浜と並ぶ「日本三大貿易港」の栄華を誇りました。煉瓦造りの建物が残る港町の風景は、どこか横浜と似ています。台湾からのバナナの大量輸入をきっかけに「バナナの叩き売り」が生まれたそうですが、「○○発祥の地」が多いのも横浜と同じです。第二次世界大戦での空襲や機雷封鎖、戦後の貿易構造の変化によって港は衰退しましたが、1995年に往時の歴史的建造物を生かした観光地区「門司港レトロ」として生まれ変わり、現在は多くの観光客が訪れる人気スポットとなりました。私たちが滞在していた日も、台湾、韓国からの団体旅行客が大勢訪れていました。
20日の17時からは、神学校の時間で、神学生に向けて講義を行いました。約1時間のプレゼンのあと、神学校チャプレンの坂本先生から「忙しい生活のなかで、セルフケアはどうなさっているのですか」と質問を受けました。まさに教会、幼稚園から少し離れ、小旅行を楽しむことが、わたしにとって貴重なセルフケアのときになっています。九州に赴任して1年半、なかなか長期の休みをとることはできず、遠くへの旅行はできませんが、一泊二日でも、ちょっとそこまで・・・といった気分で観光や温泉を楽しむことができる場所があり、次はどこにしようかと考えています。お勧めの場所を色々な方が教えてくださることも嬉しい情報源です。この時間は、イエスの宣教活動、パウロの宣教旅行とは全く異なり、牧師であることは忘れていますが・・・神さまも赦してくださるでしょうか。

門司港駅