「招かれる人、選ばれる人」2026年10月10日 聖霊降臨後第20主日 説教要旨

第一日課  イザヤ書25章1~9節
第二日課  フィリピの信徒への手紙4章1~9節
福音書    マタイによる福音書22章1~14節


招かれる人、選ばれる人

今日の福音書日課ではイエス様が「婚宴のたとえ」を通して天の国について語られます。イエス様の時代のパレスチナの結婚式は、単なる1日の儀式ではなく、家族や地域の共同体の絆を結ぶ、数ヶ月から1年がかりの大イベントでした。祝宴は通常7日間、1週間にわたって続きました。村中の人々や旅人が招かれ、飲めや歌えの大宴会となります。

「王は家来たちを送り、祝宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった」当時の正式な招待には二重の手続きがあったそうです。まだ日時が定まらない時に一般的な招きがなされ、その後、日程が決まり、その後完全に準備が整ったところで、迎えを出して呼び寄せます。この祝宴への招きは、神様の私たちに対する招きに似ています。私たちはまず、聖書などを通して、「私たちは神様によって招かれている」ということを知ります。そしてある日突然、神様は私たちのところへ招きに来られます。

ところがこのたとえでは、招待された人々はその招きに応えようとしません。家来を通して王は、「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、祝宴にお出でください」と言います。

牛や肥えた家畜を屠って用意したのですから、おそらく100人以上のゲストを見込んで最高級の料理を用意したのでしょう。招待者である王の「どうしてもみんなに来て欲しい」という強い気持ちが伝わってきます。しかし人々はその招きを無視し、「一人は畑に一人は商売に出かけ」てしまいます。私たちも神様の招きに気づきながらもその招きに応えることなく、自分の生活を優先してしまうことがあります。神様の招きは今でなくてもいつでも受けられると、どこかで思っているのかもしれません。「他の人々は王の家来たちを捕まえて侮辱を加えた上、殺してしまった」とあります。常識ではありえないようなことです。このようなありえないことが、主イエスの十字架の出来事においても起こってしまいます。

王は家来たちに「祝宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから四つ辻に出て行って、見かけた者は誰でも祝宴に招きなさい」と言います。誰でもいいから連れて来なさいということです。それまではユダヤ人に限られていた神の招きが、すべての人、異邦人にまで及ぶようになったということを象徴しているようです。「見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」というのですから、全く何の区別もないのです。「父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるのである。(マタイ5:45)」という主イエスの言葉を思い起こします。

祝宴は客でいっぱいになりました。しかしその中に礼服を来ていない者が一人いました。四つ辻に出て行って、見かけた人すべてに声をかけたのですから、礼服を来ていないのは仕方ないとも思います。しかし当時の習慣によれば、金持ちが人々を招待するときには、招いた相手に対して礼服も用意したそうです。ですから礼服を着ていない人というのは、王から与えられた礼服を自分の意志で着て来なかったということです。私たちは、神様の前に出るのに、自分で用意できるような礼服はありません。神様が用意してくださる礼服、それは主イエスご自身です。私たちは主イエスという礼服を着て、つまり主イエスが共にいてくださるから神のみ前に立ち、神の招きに応えることができるのです。天の国の宴には、王子であるイエス様ご自身が私たちと共に神のみ前に立つことができるように招き入れてくださっているのです。

このたとえは、旧約の預言者の活動から紀元70年のエルサレム陥落まで、救済の歴史を語られていると理解することができます。王は招待客へ家来たちを二度送ります。最初の家来たちは旧約の預言者たちということができます。彼らは神の祝宴への招きを伝えますが、無視されてしまいます。そして二度目の家来たちは祝宴の用意がすべて整ったことを告げますが、拒否されるだけではなく、ひどくあしらわれてしまいます。これはマタイ福音書が執筆された時代。キリスト教伝道者が激しい迫害を受けることを現しています。

王は再び祝宴に人を招きます。今度は全ての人、ユダヤ人に限らず異邦人も招く、異邦人伝道を指しています。そしてその結果、神の祝宴には、善人も悪人もすべて集り一杯になります。しかし礼服を着ていない人は、最終的には排除され、外の暗闇に放り出されてしまいます。「神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる(マタイ21:43)」とイエス様は語られていました。神の国にはすべての人が招かれています。しかし招かれた者がすべて救われるわけではないということを語られておられるのです。

神様の招きはすべての人に広がっています。しかし私たちは、その招きに気づいていないこともあるのではないでしょうか。そして自分のようなものがその招きに応えることができるのか、神の国というのは、自分のようなものでもよいのでしょうかと思いとどまってしまうことがあるのです。しかしその一歩を踏み出すことができるように、主イエスの十字架の出来事があるのです。神様は私たちのことをすべてご存知で、主イエスをこの世に遣わして下さいました。そして主は、自ら私たちの罪をすべて負われて十字架の死を受けられ、私たちを罪から解放してくだいました。私たちは主イエスによって神の国への招きに応えることができるようになったのです。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」天の国の宴の扉は常に開かれています。神様はいつも私たちを招き続けてくださっています。その神様の招きに気づき、その招きに応えることができるものでありたい、そう願っていてもしり込みしてしまう私たちのために、主イエスは、私たちと共に歩んでくださり、私たちを後押ししてくださっているのです。みことばの歌として、348番を歌いました。

2.みたまのいぶきに 悩みは去りて/みちかいあらたに やすきをたもう
罪よりとかれて  みもとにかける/はばたくつばさを  あたえたまえや

4.わが身と心を    み手にぞゆだね/めぐみにあふるる  しもべとなりて
すくいのみわざの  またきをたたえ/ み国のさかえに   いらしめたまえ

私たちは、主イエスによって罪から解かれ、神の国に導かれています。神の国の入口に立つことが赦されています。主イエスは、私たちがその招きに応えることができるように、ときに前から手を差し伸べ、ときに後ろから後押しをしてくださっています。身も心もすべてを主に委ね、主に従うことができる者としてくださっているのです。

 

AI時代のカウンセリング

教員時代に取得したカウンセリング心理士の資格を維持するために、先日日本カウンセリング学会の主催する「AI時代のカウンセリング」という研修をオンデマンドで受講しました。コロナ禍において一気に学校現場でIT教育がすすみ、小学生からタブレット端末が支給されました。今は、0歳から2歳で、62.6%の子どもたちが親にスマホやタブレットを与えられ、ネット環境の中に置かれています。「スマホありきの子育て」の時代です。幼稚園の子どもたちも家に帰るとゲームをし、YouTubeを視聴し、インターネットはなくてはならないものとなっています。子どもたちのトラブルの原因は、オンラインゲームの中でのボイスチャットが多いこと、ネットいじめの実体、いじめの加害者の理解、いじめの発生場所など多岐に及び、興味深い学びとなりました。

10年後になくなる可能性が高い仕事は、一般事務、データ入力、銀行窓口、金融事務、レジ係、販売員、工場・製造業などのライン作業員、運転手などで、その共通点は、毎回同じような作業を続ける、データが電子化しやすく、AIが判断できることです。一方10年後も残る仕事は、医師、看護師、保育士、教師など高度なコミュニケーションや共感力が必要な仕事。経営者、企画、高度なデザインなどゼロからアイディアや価値を生み出す仕事。AIを道具として使いこなす技術職だそうです。子どもたちが将来どのような職業選択をするか、そのために幼児期、学童期にどのようなことを身に付けておけばよいのか、色々な角度から考えさせられました。そして最後に講師が語ったことは、「スマホの問題は心の問題」ということでした。安心できる居場所、楽しい学校、家庭をつくることが何よりも大切だということでした。AI時代、子育ても学校教育も大きく変わりました。教会も決して無関心ではいられないと思いました。

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