第一日課 イザヤ書5章1~7節
第二日課 フィリピの信徒への手紙3章4b~14節
福音書 マタイによる福音書21章33~46節
隅の親石
イエス様は、祭司長たちやファリサイ派の人々に向かって、続けてもう一つのぶどう園のたとえ話を語られました。ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを建てます。当時のぶどう園は貧しい農民たちからの反乱や盗難を防ぐために周りを石垣で囲み、やぐらを建てて終始見張りの者を置いていました。1世紀のガリラヤの農民たちは、ローマ帝国支配下で生活をしていましたが、ローマ帝国の税金、ヘロデ政権の税金、エルサレム神殿の神殿税と三重の税金を納めていました。それに加え人々は、飢饉・水不足に苦しめられていました。農民たちの抵抗運動は、ガリラヤから始まり、広範囲にわたって起きていました。それらの運動は、軍隊の力で抑え込まれていました。多くのユダヤ人たちは、このような状態で借金を返すことができず、先祖伝来守ってきた自分の土地を奪われていました。そして小作人、あるいは、日雇労働者として働かされていました。
一方、大土地所有者は、農民から奪った土地を合わせて、広大な土地を手に入れると、金儲けのためにぶどう園を造ります。多くの収益が得られるぜいたく品、輸出することができるワインを製造する場所となります。ぶどう園を造るということは、誰かの土地を取り上げて自分の土地にすることを意味していました。
ぶどう園の主人は、時々旅に出る必要がありました。自分の所有する多くの領地を巡回しなければなりませんし、輸出入ビジネスなどで新しい投資を行い、ビジネス・ネットワークを拡大して、財産を蓄積・増大していく必要があり、そのために旅に出たのです。
そしてぶどう園はぶどうの収穫期を迎えます。主人は収穫物を受け取るために家臣である僕を送ります。一度に3人送り、その後多くの僕たちを送り、最後に息子を送ります。農夫たちにとって、「僕」は主人の家で働く家臣で、主人の代理として主人に従って行動する存在です。僕は農民たちにとって過重労働をさせ、主人の命令とはいえ、非常な搾取をする存在です。蓄積された憎しみや敵意はこの僕たちに向けられていました。農夫たちはこの主人の代理として送られてきた僕を、袋叩きにし、殺し、石で打ち殺してしまうのです。最後に農夫たちは、主人の息子に対しても捕まえ、ぶどう園の外に放り出し、殺してしまいます。これまで過酷な労働を強いられ、蔑まれ、苦しめられていた農夫たちは、一致団結して反逆行為に出たということです。
この譬え話は、「主人は神様」「ぶどう園は神の民イスラエル」「農民は、イスラエルの宗教指導者」「僕たちは預言者たち」「息子は主イエス」と理解されています。ただしこの「ぶどう園」を「神の造られた世界」そして「農夫たち」は「神に選ばれたはずのユダヤ人」と読むこともできるでしょう。この譬え話を私事として読むこと、私たち自身の罪がここで露わにされていると読むことが必要です。神は天地を創造されました。私たちはその神が創造された世界をぶどう園の農夫たちのように委託され管理しているにすぎません。しかしあたかもぶどう園、この世界を自分のものとしようとし、本当の主人である神様を忘れ、自分が主人であるかのように振る舞うこと、そこに私たちの根本的な罪が潜んでいます。人間の予想を超える自然災害が世界中で続き、地球規模の環境問題はもはや取り戻すことが困難な状態まできてしまっています。自分中心の考え方に固執し、自分のため、自国の立場を固辞するため、世界中あらゆるところで戦争や紛争が絶えません。イエス様の語られているこのたとえ話は、単に2000年前のユダヤの人々に向けて語られた他人事として聞くことはできません。私たちは、「神の造られた世界」であたかも主人であるかのように振る舞っていないでしょうか。
主イエスの十字架は、私たちの罪の結果であり、私たちの罪が最も露わにされたために起こった出来事です。主イエスは私たちの罪を露わにされながら、死の裁きを下されるべき方であるのに、その判決は自らが受けられました。私たちが死すべき人間であるにもかかわらず、ご自分が十字架の苦しみを受けられ、私たちには、生かされる道を開かれました。ここで主イエスは詩編118編の22節、23節を引用されました。
「家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。/これは主の御業。/私たちの目には驚くべきこと」
家を建てる者の目から見て捨てられるものが、実は建築に最も大事な親石、基礎石になったということです。これは、「祭司長たちや民の長老たち」に殺されるイエス・キリストが、福音の御業の基礎になることを暗示している言葉です。「隅の親石」となって、主の御業が始まる。主の十字架の出来事は、主が私たちの罪をすべて負われた十字架の死で終わりではありません。復活の喜びにつながります。捨てられた「隅の親石」は用いられ、そこから新しい世界が始まる、大きな転換点となっていきます。
詩編の言葉は次のように続きます。
「今日こそ主の御業の日/今日を喜び祝い、喜び躍ろう。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。/私たちは主の家からあなたたちを祝福する。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。/わたしの神よ、あなたをあがめる。」
主の驚くべき計画は、十字架の死で終わるのではなく、復活の喜びへとつながっていきます。そこで私たちは、永遠の命が与えられ、神の国へと迎え入れられるべく約束されているのです。捨てられた石が「隅の親石」となっていること、主の十字架の苦しみから主の御業が始まっていること、新しい喜びの世界が始まっていることを、喜びをもって感謝して受け止めていきましょう。
今日終わりの讃美歌として285番を選びました。主は喜びの光をもたらしてくださり、私たちに宣教の命を与えてくださっています。
「シオンよ、いそぎつたえよ、/み神はひかりなれば/われらが、ほろびのやみに/失せゆくをのぞまずと
よろこびのおとずれ/いざやいそぎ世につたえん」
主イエスが十字架の死をもって、この世の罪をすべて負われ、そして復活の喜びをもたらしてくださいました。私たちは受けたこの喜びのメッセージを語り伝えてまいりましょう。主は今日も確実にこの世界で、隅の親石として、働かれているのです。
『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』
塚本普也氏が監督・脚本を手がけ、ベトナム戦争に従軍したアレン・ネルソンが自らの戦争体験と帰還後の葛藤をつづったノンフィクション書籍を原作に、「戦争加害者の傷」をテーマに取り組んだ映画です。2026年、第83回ベネチア国際映画祭コンペティション部門にノミネートされたことから上映前から話題になっていました。9月11日から上映が始まりましたが、上映館が少ないため、都内でもなかなか見ることができないそうです。私は映画を見に行く時間はおそらくないので、原作を読みました。貧困と人種差別から解放されるために、18歳で海兵隊に入隊したアレンさんは、苛酷な新人キャンプで、戦場でおそれることなく上官に言われるがままに人を殺す人間になることを教えこまれ、人を殺すことのためらいや、罪の意識が薄らいでいきます。沖縄での1か月の訓練後、嘉手納飛行場を飛び立ち、戦地ベトナムに赴きます。戦場では、人を殺せる勇気があるのか、戦場で使い物になるのかということで上官から信用され、真の仲間となることができることを知ります。罪の意識でもなく、恐怖でもなく奇妙な感情に捕らわれます。帰国後、戦争によるPTSD、精神的後遺症に苦しみます。そこから立ち直った後、戦争を生きのびたひとりとして、本当の戦争について語ることが自分に与えられた義務と思い、日米両国で精力的に講演活動を行います。戦争の現実を訴え、61歳で、多発性骨髄腫で亡くなるまで、平和運動を続けます。アレンさんの言葉は、世界平和へと大きく導く力強い言葉だったといいます。
参考文献 『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』 アレン・ネルソン著、講談社文庫