「父と子と聖霊の名によって」2026年5月30日 三位一体(聖霊降臨後第一主日)礼拝 説教要旨

第一日課  創世記1章1~2章4a節
第二日課  コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章11~13節
福音書   マタイによる福音書28章16~20節


父と子と聖霊の名によって

今日は、三位一体主日です。三位一体とは、キリスト教における教義で、「父なる神」と「子なる神」と「聖霊なる神」とが3つの姿(三つの位格)を持ちながら本質的には同一の存在であるとする考え方です。
今日は「三位一体主日」ですので、信仰告白に「アタナシウス信条」を用います。私の出身教会である、大岡山教会では、毎年三位一体主日には信仰告白は、「アタナシウス信条」を用いていました。『ルーテル教会信条書』の初めに、3つの主要信条として、毎週用いる「使徒信条」、主に聖餐式を執り行う礼拝で用いる「ニケヤ信条」そして「アタナシウス信条」が記されています。「使徒信条」は、3つの基本信条のなかで最も古い起源をもちます。「信条」とは、「信徒の集団」としての「教会の信仰告白」つまり「教会は何を信じているか」ということの表明です。「使徒信条」は2世紀後半から用いられていたと考えられ、3世紀ころから洗礼式で用いられていた信仰告白が、やがて普遍的なかたちへと発展し、380年ごろに書かれたとされる「使徒教憲」には、12使徒がこの公同の教えを残したと伝えられています。だいたい現在の形での使徒信条が見出されるのは、8世紀になってからです。

「ニケヤ信条」は、313年、キリスト教がローマ帝国のコンスタンティヌス大帝によって公認され、外からの迫害の時代が終わると共に、教会は教会内での「異なる福音」と対決することになります。コンスタンティヌスは325年にニケヤ公会議を招集し、この信条的文書が公にされました。それが「ニケヤ信条」の原型となるものです。ローマの典礼の中に用いられるようになったのは、11世紀になってからですが、「使徒信条」が洗礼の際の告白として用いられていたのに対して、「ニケヤ信条」は聖餐と結びついた典礼の中にいれられました。

そして「アタナシウス信条」は、ニケヤ公会議の際に正統信仰を主張したアレキサンドリアのアタナシウスによって作られたと言われてきました。しかしラテン語を原文としていて、ギリシア語を用いたアタナシウスにあてはまらない、アタナシウスの特徴的な用語も用いられていない、内容もアタナシウスより後の時代を前提としていることから執筆者はわかりません。内容的には、三位一体と、真の神であり真の人であるキリストの人格について述べていて、唯一の神を三位において、三位一体において礼拝する事、キリストにおける神性と人性が位格において統一していることを主張しています。

本日の福音書日課は、マタイ福音書最後、復活したイエス・キリストがガリラヤで弟子たちの前に現れた物語です。ここに「疑う者もいた」と記されています。常にイエス様と行動を共にしていた弟子たちにとっても、復活というものがいかに受け入れがたいものであったかを示しています。

ここで主イエスは、弟子たちに3つの命令を語られました。第一は、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」という命令です。「弟子にする」ということは、主イエスを信じる者とするという宣教命令です。「あなたがたは行って」ということは、ここに留まっているのではなく、出かけて行くことです。しかも「すべての民」に対しての宣教命令がなされました。かつてイエス様は弟子たちに対して「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタイ16:24)」と言われました。弟子になる、弟子として生きるということは、厳しいことでもあります。自分を捨てて主に従うことはできない私たちです。それでも主は私たちを赦し、どこまでも愛してくださる方であるから、私たちは主にすべてを委ねて生きることができる。そこに喜びを見出すことができます。

第二に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいという命令です。洗礼を受けるということは、神と会衆の前で主イエスの弟子となることを宣言することです。宣言の最後の問い、「あなたは、この信仰のもとに、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯をおくりますか」に対して「はい、神の助けによって」と答えます。そして聖霊によって神の子とされ、キリストの弟子として生きることのしるしを受けます。洗礼によって、キリストの弟子として生きることを宣言したキリスト者であっても、誰しも、苦しいとき、試練のときには、どうして自分がこのような試練を受けなければならないのかと神様を疑い、信仰を失いそうになります。洗礼を受け、キリストの弟子とされたにもかかわらず、私たちの信仰は弱く、自分の力だけでは、キリストのからだに連なる者として生涯を送ることができないのです。そのようなとき、神様が私たちを助けてくださり、聖霊なる神によって、再び引き戻されるのです。

第三に「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」と命じられます。これも厳しい命令のように感じられます。洗礼を受けたからこれで安心というのではなく、洗礼を受けたときが始まりであり、命じられたことをすべて守らなければならないということは、よっぽど大変な試練のように思えます。洗礼を受けてすべて完成するのではなく、ここから主と共に歩んでいく新しい人生が始まります。
そして最後の言葉です。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」主イエスはただ、命令をされるだけではありません。「天と地と一切の権能を授かっている」方が、世の終わりまで共にいてくださいます。

マタイ福音書は、イエス・キリストの誕生の次第について、天使がヨセフにマリアの懐妊を告げた後、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。その名は『神は我々と共におられる』という意味である」と告げています。神が我々と共におられるということを明らかにするために、イエス様をこの世に送ってくださいました。そして、マタイ福音書は最後の言葉として「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われ、弟子たちに宣教命令をされました。主は始まりから終わりまで共にいてくださる方だということを明らかにされました。

今日は、第一日課として、創世記1章から始まる天地創造の物語を読みました。すべてのものを創造された神様は、人をご自分にかたどり、似せて造られました。そして神様はお造りになったすべてのものを御覧になり、「見よ、それは極めて良かった」と言われました。全てのものを造られ、そして「極めて良かった」と言われた創造主なる神は、絶対的な存在である「父なる神」です。そして「父なる神」は、その独り子であるイエス様をこの世にお遣わし下さいました。「子なる神、イエス・キリスト」は、十字架の苦しみを受けられ、私たちの罪をすべて赦し、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。そして復活の主は、天に昇られ、人の目ではその姿を見ることはできなくなりましたが、「聖霊なる神」となって、世の終わりまでいつも共にいてくださると約束してくださり、共に歩んでくださる方となられました。「父なる神」「子なるイエス・キリスト」「聖霊なる神」は三つの姿でありながら本質的に同一であり「唯一の神」だということです。

「三位一体の神」「三つにましてひとりの神」は、世の終わりまで私たちと共にいて、力を与えてくださり、限りない恵みと希望を与えてくださいます。使徒書の日課はコリントの信徒への手紙Ⅱ13章のみ言葉を読んでいただきました。パウロが去った後、混乱の中にあったコリント教会に対して、パウロは互いに励まし合い、思いを一つにすることを命じられます。そして愛と平和の神が共にいてくださることを伝えます。困難を抱えているとき、試練のとき、弱いときにこそ主は大いなる力を注いで共にいて働いてくださいます。思いを一つとし、主にすべてを委ね、「我々と共におられる」と約束してくださっている主と共に歩んでまいりましょう。

 

駐輪場でのできごと(5月30日)

私は、毎朝、教会から西鉄二日市駅まで自転車で行き、駅の駐輪場に自転車を置いています。駐輪場には、午前中3人くらいの方が交代で、料金を受けとり、駐輪許可証を自転車に素早く取り付けてくださいます。朝は自転車で駅に行く人は皆、乗る電車が決まっていることもあり、代金の受け取りも駐輪許可証の取り付けも大変早く、スムーズに駐輪することができます。いつもより早いときには、「今日は早いね!」と声をかけてくださり、電車の時間を気にしてくださっているのか「急げ、急げ!」と言ってくださることもあります。(電車の発車時刻までは余裕があるので、それほど急ぐ必要はありません)
ほぼ毎朝、自転車を置く順番は決まっていて、いつも同じ自転車の横に駐輪することになります。しかし3月までほぼ毎朝同じ自転車の横に駐輪していましたが、4月からは私の前に置かれる自転車が変わりました。ヘルメットを取り付けてある新品の自転車の横に駐輪することになりました。おそらくこの4月から電車通学するようになった高校生でしょうか。私は、帰りはだいたい午後7時ごろになるのですが、その自転車が大抵まだ置かれています。部活で遅くまで頑張っているのかな・・・と会ったこともない人のことを想像しています。そして3月までの自転車の持ち主はどうしているのだろうかと余計な心配もしてしまいます。毎朝7時11分発、特急大牟田行に乗りますが、電車の車両、同じドアから乗車する人は、ほぼ同じです。会話を交わすことは全くありませんが、毎朝同じ人の乗る電車に乗るこができると安心します。横浜の学校に勤務していたときも、毎朝、電車はほぼ同じ人が乗っていました。ところ変わってもその情景は変わりません。そして自転車の持ち主、駐輪場で代金を受け取ってくださる方、同じ電車に乗り合わせる人は、会話を交わすわけではありませんが、安心を与えてくださる方々です。それぞれの職場、学校で、今日も、1日良い日を過ごすことができますようにとひそかに祈るのです。

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