第一日課 エレミヤ書20章7~13節
第二日課 ローマの信徒への手紙6章1b~11節
福音書 マタイによる福音書10章24~39節
仕えることの厳しさ
今日の福音書日課は、まず宣教活動のために弟子たち必然的に受けなければならない迫害について予告されています。師であり、主人である主イエスが迫害を受けたのであるから、その弟子であり、僕である者も迫害を受けて当然ではないかということです。弟子として、僕として、主イエスの苦しみに参与することができるのであれば、私たちの苦しみは和らげられる、主が共にその苦しみを担ってくださると捉えることができます。そしてそのあと、主は「恐れてはならない」と3回言われ、その理由を3つ挙げています。
第一は「覆われているもので現わされないものはなく、隠れているもので知られずに済むものはないからである。(26節)」とうことです。「秘密に隠していてもいつか漏れるものだから、他言は慎め」という意味のことわざがあったようです。これは信仰の真理を示している言葉です。
第二は、「体は殺しても、命は殺すことができない者どもを恐れるな」ということです。神さまお一人を除いて、誰も命の根源である魂までは手を伸ばすことができない。ただ神さまを真に恐れること、神さまに全てを委ねて生きることができれば、何も恐れずに生きることができる。すべての恐怖から私たちを解放してくださるお方なのです。
第三は、神さまは、小さな雀にも心をとめ、私たちの髪の毛の数も数えて、私たちのことをすべてご存知で配慮してくださっている方だということです。「二羽の雀は1アサリオンで売られている」ということは、雀は一羽では売り物にもならないということです。一羽では売り物にもならない雀の命でさえも、神さまの赦しがなければ死ぬことはない。だから雀よりも優れたもの、弟子として生きる者の命は必ず守られるということを語られます。
「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ(34節)」この主イエスの言葉を聞いて、戸惑わない人はいないでしょう。イエス様は「平和を実現する人は、幸いである(マタイ5:9)」と言われましたし、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい(マタイ5:44)」と言われました。「平和ではなく、剣をもたらすために来た」では真逆です。イエス様の言われる「平和」、主イエスによってもたらされる「平和」は、私たちの考えるような「平和」ではないということを強い言葉で言おうとされているのではないでしょうか。
詩編85編には、次の様に記されています。
わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
主は平和を宣言されます。
御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
彼らが愚かなふるまいにもどらないように。
主が宣言される平和とは、どういう平和なのでしょうか。詩編の言葉はさらに続きます。
慈しみとまことは出会い
正義と平和は口づけし、
まことは地から萌えいで
正義は天から注がれます。
主が宣言される平和とは、「慈しみ」と「まこと」、すなわち「愛」と「真実」が出会い、地上での「正義」と天から注がれる「平和」が口づけするというのです。このまことの平和の実現のために、主イエスは人となりこの世に遣わされ、そして十字架の苦しみを受けられたのです。まことの平和の実現のために、自ら剣を受けられたのです。
福音書日課、最後の38節に、「ふさわしくない」という言葉が3回繰り返されます。「私よりも父や母を愛する者」「私よりも息子や娘を愛する者」「自分の十字架を取って私に従わない者」、つまりは「ふさわしいもの」となるために、血縁的人間関係を断ち切る決断が要求されています。信仰か肉親かの二者択一が迫られています。これはいかにも厳しい道です。血縁関係をすべて断ち切らなければ主に従う、主に仕えることはできないということなのでしょうか。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです」「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」
パウロは、わたしたちはキリストの十字架によって、罪の奴隷から解放され、新しく生きるものとされていることを教えています。キリスト者として生きること、主に仕えることはときに厳しく、逆風の中に生きることを強いられることもあるかもしれません。辛く苦しいとき、私たちは、苦しみから逃れることだけを考えてしまいます。しかしそのようなときにこそ、主は、「恐れるな」と声をかけてくださっています。自ら真の平和の実現のために、剣を受けられたキリストによって、私たちは新しく生きるものとされている、キリストと共に生きるものとなることを信じ、その深い恵みに応えていけばよいのです。全てを捨てて主に従う、仕えることなどできない私たちであることもすべてご存知です。それでも今日も変わらずに主は私たちに深い慈しみと恵みを与えてくださっています。すべてをご存知の上で、共に生きるものとして「恐れるな」と声をかけ続けてくださっています。そして私たちを「主に仕える者」、主から受けた恵みを必要としている人に、隣人に、分け与えることのできる者としてくださっているのです。キリストの十字架によって、キリストと共に生きる者としてくださったのです。
見せる行事から、楽しめる行事への転換
13日の土曜日、日善幼稚園の運動会が行われました。これまで運動会は10月に行っていましたが、会場として使用している「えーるピア久留米」が、夏から大幅改装工事が始まり使用できなくなることから、6月に行うことになりました。幼稚園の行事は、保護者に子どもたちの成長した姿を見てもらう機会として、見せる行事になりがちです。運動会というと組体操、鼓笛隊などを行う園が多くあります。しかしそのために子どもたちは長い期間、自由遊びの時間を削って練習をしなければなりません。本番が近づくと先生方の指導も熱が入り、厳しく注意する声が響きます。子どもたちは、「また今日もれんしゅう~?」と言い始め、だらけてしまうこともあります。今年はまだ入園してまもない子どもたちに負担になることを避け、「親子で楽しむ日」として競技内容もこれまでと大きく形をかえて、親子競技に変えました。現地での練習も1回のみ、園でも殆ど練習はしませんでした。気が付くと、他のクラスの競技に特別参加している子がいたり、何回もかけっこに参加している子もいたり、ハプニングもあったようですが、子どもたちも保護者の皆さんも「あ~、楽しかった」と満足。みなさん、喜んで帰っていただくことができたようです。見せる行事のための保育ではなく、日常の自由遊びの延長線上の楽しめる行事、そのような捉え方ができたように思います。