第一日課 イザヤ書55章10~13節
第二日課 ローマの信徒への手紙8章1~11節
福音書 マタイによる福音書13章1~9節、12~23節
み言葉の種
今日の福音書日課は、「種を蒔く人のたとえ」です。イエス様が語られた譬え話は、福音書に40余りあると言われています。イエス様は譬え話の名人だったということができるでしょう。イエス様の話を聞くために集まって来た群衆は、多くが農民であり、種まきは日常風景でした。人々は自分の経験、日ごろ見慣れた農民の姿を思い浮かべながらこの話を聞いていました。
この譬え話は、ある人が蒔いた種の四種類の行方について語られています。18節以下には、この譬えの説明が語られていますので、その意味を理解することができます。
第一の種は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまいました。道端に落ちた種は人に踏みつけられてしまい、根を下ろすことは殆どありません。道端はかたくなな心で、福音を聞いても心に入らず、受け入れることができない人のことだといいます。鳥たちに食べられてしまうということは、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取ると説明されています。
第二の種は、石だらけの土の少ない所に落ちました。土が浅く、すぐに発芽しますが、同時に根を伸ばすことができず根も焼かれてしまうので、すぐに枯れてしまいます。熱しやすく冷めやすい人ということでしょう。目に見えている部分は立派に見えても、目には見えない根がなければ枯れてしまう。信仰も積極的な理由がなくなったり、環境が変わったりすると、教会生活が続かなくなってしまう、教会から離れてしまうようなことだと説明しています。
第三の種は、茨の中に落ちた種です。石だらけの場所ではないので、芽を出し、根もはります。しかし茨にふさがれてしまう。茨とは、外から来る誘惑でしょう。茨が伸びようとする茎をふさいでしまうように、さまざまな誘惑に負けてしまい、信仰を失ってしまうということです。「世の思い煩い」「富の誘惑」と記されていますが、私たちはいろいろな誘惑に、心惑わされ、信仰を持っているつもりであっても誘惑から自由になることはできません。かつては教会にも青年が多く集まり、教会での交わりに身をおくことによって、自分の信仰も深まり、安心して過ごす場所として、人生の土台を築くことができました。しかし今は、多くのことに心惑わされ、礼拝中心の生活を送ることが難しくなり、礼拝は都合がつけば行くところ程度になっていることもあります。そのことによって、だんだんと教会から離れてしまうこともあります。
第四の種は良い土地に落ちた種です。「み言葉を聞いて悟る人であり、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結ぶ」とあります。この譬え話は、「種まきをする人」は、「神様」、「種」は「御言葉」、「種が蒔かれたところ」が、「色々な人間の心」と解釈されていました。福音を聞く人の責任が問われ、「私の心はどんな土地か」と問われ、良い土地のように心を整え、み言葉を受けなければならないと解釈されていました。しかしそんな良い土地を持っている人、そのような心を持っている人はいるのでしょうか。イエス様は、イエス様の話を聞くために集まって来た群衆に対して、反省を促すためにこのような譬え話を語られたのでしょうか。そうではなく、どんなに悪い土地であっても、私たちの弱さも、思い煩いもすべてをご存知の主が耕してくださるから、実を結ぶことができるようになるのではないでしょうか。主イエスが十字架にかかられた時、弟子たちもひとり残らず主イエスのもとから逃げてしまいます。イエス様が語られたみ言葉の種は、弟子たちの心に根付くことなく、みんな枯れてしまったと言えるかもしれません。しかし、枯れたままで終わることはありませんでした。主が死に打ち勝ち、復活されたことによって、弟子たちは新しいいのちを受けて、新しい一歩を歩み始めます。復活の主イエスから受けた聖霊の力によって、み言葉を世界中に語り伝えるために宣教活動を始めます。主イエスの復活によって、一旦死んでしまった種から芽を出させ、枯れてしまった芽は再び生き返り、30倍、60倍、100倍それ以上に実を結ぶことになるのです。
イエス様はヨハネ福音書12章では「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われています。本当に種が実を結ぶようになるのは、私たちが良い土地をもつことができるからではなく、主が十字架の苦しみを受けられいのちをかけてくださったからです。私たちの心が弱く、多くの事に惑わされ、疑い迷う心であっても、主がしっかりと私たちの心を耕し、どんなに悪い土地であっても良い土地にしてくださるのです。主によって、主の十字架によって、私たちの心の畑は耕され、良い実を結ぶことができるようになるのです。
ガリラヤの農民は、生きることに欠かせない実りが人間の努力、人間の労働だけで得られないことをよく知っていました。いくら努力をしても、天候によってダメージを受けること、自然災害によって全滅してしまうこともあります。そのことを人生経験の中で身を持って理解していました。先祖からずっと継承されてきた信仰共同体の教えとして、神の恵みがあってこそ収穫を得ることができるということを信じ、神に感謝し生活してきました。どんなに苦労して、必死に祈り続けても不作や凶作になることもあります。それは2000年前のガリラヤ地域に限らず、今の時代も変わらない事実です。しかし神様は、一生懸命努力している人々を罪人として見捨てるようなことはなさらない方です。だから安心してすべてを主に委ねて信頼して生きることができれば、時に凶作に苦しめられることがあったとしても、豊作の喜びのときも与えてくださいます。主は決して見捨てることなく、生きる道を備えてくださり、30倍、60倍、100倍、それ以上に実を結ぶことができるように導いてくださるのです。
幼稚園の礼拝、教会学校の礼拝は、私にとって喜びのときです。幼い心にみ言葉の種を蒔くときだからです。幼稚園の礼拝のあと、年長さんの子どもたちは、お部屋に戻って、4月に渡した聖書を開き、その日のみ言葉に線を引いています。まだ平仮名も十分に読めない子どもたちが、少し大人になったような気分で、その箇所を見つけて線を引きます。幼いときに蒔かれたみ言葉の種が芽を出し、根をはり、実を結ぶ時は、すべて主が導いてくださいます。子どもたちがこれからの人生において、み言葉によって生きる力が与えられることを信じて蒔き続けていきたいと願い祈っています。

ジャン=フランソワ・ミレー 『種をまく人』
FIFAワールドカップのルター派
ワールドカップも決勝トーナメントがいよいよ終盤に近づいて来ました。多くの方は、日本がブラジル戦で惜しくも敗れたところで、興味も失せてしまったかもしれませんが、我が家はスポーツ観戦が大好きな家族ですので、いつも最後決勝まで(日本がまだワールドカップに出場できない頃から)楽しんでいます。試合を見ていると、外国人選手の多くが、ここぞ!というときに十字を切る姿を目にすることがあります。試合が始まる前、控え選手がフィールドに入るとき、PKの前などにその姿を見ます。5日(日本時間6日早朝)に行われた決勝トーナメント2回戦、ブラジルVSノルウェーの試合は、6度目の優勝を目指したブラジルでしたが、前半のPK失敗が響き、後半にハーランドに2ゴール許して敗戦、9大会連続のベスト8進出を逃しました。
ブラジルは人口の約90%がキリスト教徒ですが、大半がカトリック教徒です。ブラジル独立100周年を記念して、1931年に完成したリオデジャネイロのコルゴバードの丘に立つキリスト像がそのことを象徴しているように思います。
ノルウェーのキリスト教はルーテル派が主流です。長らく国教でしたが、2017年に政教分離され独立法人となりました。しかし現在も国民の約70%以上が「ノルウェー教会」に属しています。私たちの教会と同じように使徒信条、ニケア信条、アタナシウス信条、ルター小教理問答書及びアウグスブルク信仰告白によって運営しています。生まれたときから、ルター派の信仰が根付いている国です。同じルター派の信仰を持つ国の活躍は、嬉しく感じます。