「聖霊が降る」 2026年5月23日 聖霊降臨(ペンテコステ) 説教要旨

第一日課  使徒言行録2章1~21節
第二日課  コリントの信徒への手紙Ⅰ12章3b~13節
福音書   ヨハネによる福音書20章19~23節


 

聖霊が降る

今日は聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝です。復活後、天に上げられて、地上において、目で主イエスのお姿を見ることはできなくなったけれど、聖霊なる神となっていつでもどこでも共にいてくださる方となった日、教会のお誕生日とも言われている日です。

弟子たちは、週の初めの日の夕方、ユダヤ人たちが自分たちを捕えに来るのではないかと恐れて、家の扉の鍵をしっかりと閉めて、息をひそめてじっとしていました。そこに復活のイエスが、ノックするわけでも鍵をあけるでもなく、入って来て彼らの真中に立たれました。そして「あなたがたに平和があるように」と言われます。弟子たちがおびえている様子を見て、主イエスは自ら手の傷と脇腹をお示しなります。弟子たちは、その手と脇腹の傷を見て、イエス様が復活され、自分たちの前に立たれたことを確信することができました。イエス様はもう一度ここで「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉をかけられ、「わたしもあなたがたを遣わす」と宣教命令をされます。ここで、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われるのです。

「息」「風」「霊」というのは、原語ギリシア語では同じプシュケーという言葉が使われます。旧約聖書、ヘブライ語では「ルーアッハ」という単語が使われています。天地創造の物語において「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。人は神の息を吹き入れられることによって生きる者とされました。またノアの洪水物語において、水が150日の間、地上で勢いを失わなかったその後、創世記8章1節「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水は減り始めた」と記されています。風を吹かせたことによって、水が引いた後、箱舟にいたものは、再び地で生きるものとされます。神が吹かせられる「風」が命の始まりとなるのです。ヨブ記27章3節で、ヨブは「神の息吹がまだわたしの鼻にあり/わたしの息がまだ残っているかぎり」という表現をしています。「息」は単に生物として生きている印であるだけではなく、鼻の中にある神の息吹、すなわち霊的に神によって生かされていることを意味しています。詩編104編30節でも「あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる」と記されています。人は神に息を送られる、神の息によって生きるものとされると考えられています。さらにエゼキエル書37章には、「主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ、霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」とあるように、「霊」は復活させる力となります。

「ルーアッハ」、神の息、風、霊が吹き入れられることによって、人間は生きる者、神によって新しく生きる者とされるのです。主が復活されたことを知らされても信じることができなかった弟子たちは、復活のイエスによって息を吹きかけられ「聖霊を受けなさい」と言われ、初めて主の復活を信じることができました。そして、家の鍵だけではなく、心の鍵も締め切っていた弟子たちの心は開かれ、新しく生きるものとされました。

そして復活の主イエスは40日間弟子たちと共に過ごされた後、彼らの目の前で、天に上げられ、彼らの目から見えなくなります。弟子たちに対して「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。地の果てに至るまでわたしの証人となる」と語り、彼らを祝福されて天に昇られました。しかしこれではまだ十分な世界宣教にはつながりませんでした。使徒言行録1章15節には、「120人ほどの人々が一つになっていた。」とありますからもうすでにかなり大きな集団となっていたことが分かります。120人集まっているのなら教会は始まっているということが出来るようにも思います。しかし人が集まっていただけでは十分ではありませんでした。

「五旬祭」とは、ユダヤ教の三大祭りの一つ、七週祭のことです。「刈り入れの祭り」と呼ばれ「小麦の収穫の初穂」を神に捧げる日でした。過越祭の安息日の翌日から七週間を経た翌日まで、50日を数えて祝われました。「ペンテコステ」というのは、50日目という意味です。まず突然、激しい風が吹いて来るような音がします。そして「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった」という不思議な現象が起こります。「舌」ということは、彼らがこれから神の言葉を語り始めることを象徴していると言えるでしょう。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し始めた」しかも彼らは、「神の偉大な業」について語り始めました。様々な言語でありながら内容はすべて同じ「神の偉大な業」について語り始めました。ただ単に人が集まり、そこで語り始めたのではなく、聖霊に満たされ、霊が語らせるままに語る、聖霊の力によって語り始めたゆえに、聖霊降臨の出来事は「教会の誕生日」だと言われています。

教会とは、ただ120人の人が集まっていただけでは十分ではありません。ただ単に教えを語り始めただけではそれは人々に届く言葉にはなりませんでした。聖霊によって、霊の力によって語り始めた言葉であったから、人々の心に届く言葉、だれもが理解できる言葉となりました。使徒書の日課、コリントの信徒への手紙に記されているように「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです。」霊によって語らせられる言葉であるから「イエスは主である」という言葉も真実の言葉となるのです。

ペンテコステの日に歌うこどもさんびかに「ふしぎな風が」というさんびかがあります。ペンテコステのさんびかなので、1年に一度しか歌わないのですが、勇気を得ることができる私の好きなこどもさんびかのひとつです。

ふしぎなかぜが びゅうっとふけば
なんだかゆうきがわいてくる
イエスさまの おまもりが きっとあるよ
それが聖霊のはたらきです
主イエスのめぐみは あの風とともに

ふしぎな風が びゅうっとふけば
いろんなことばの人たちも
その日から 友だちにきっとなれる
それが教会のはじまりです
世界の平和も あの風とともに

教会は人の集まりです。そこには色々な人が集まります。時に考え方の違いから食い違いも起こり、憎しみも生まれ、理解し合うことの難しさ、赦し合うことができない困難さが生じることもあります。一つ間違うと他人の悪口を言ったり、噂話をしたりしまうこともあります。気心の知れた仲間で集まる方が、居心地がよくなり、新しい人が入るのを嫌がるようにもなりかねません。しかしそれでは単なる人間の集まりであって、教会ではなくなってしまいます。教会は、すべての人に「神の言葉、神の偉大な業」を語るために、すべての人に福音を伝え、届けるためにあります。そこで私たちは主の証人として生きるために、神の民として遣わされています。聖霊降臨の出来事によって、聖霊なる神は、常に私たちと共に、私たちのもとに、私たちのうちにおられる方として、共に歩んでくださる方となりました。「いろんな言葉の人も友だちになれる、世界の平和もあの風と共に」もたらされるものとなりました。聖霊の力によって、主の証人として生きること、世に遣わされる私たちです。不思議な風、神の息が吹きかけられ、新しく生きるものとされたことに感謝して、ここからまた歩み出してまいりましょう。不思議な風に勇気を与えられて。

 

筑前町立大刀洗平和記念館

連休中に久留米教会の会員の方で、太刀洗の施設に入居されている方の訪問をしました。その際、以前から一度行きたいを思っていた「大刀洗平和記念館」に立ち寄りました。大刀洗飛行場は、西日本における陸軍の航空拠点で「東洋一」と謳われて、1919年に完成しました。1945年3月、米軍による空襲で施設が壊滅するまで、26年間この地域は一大軍都として発展したそうです。館内には、大刀洗航空隊の飛行機に関する資料など約2000点を展示。1996年9月に博多湾雁ノ巣鼻の東約600m、水深3mの海底で発見され引き上げられた世界に一機しかない旧陸軍97式戦闘機が、特攻隊員約200人の遺影とともに展示されています。この飛行場は、特攻隊の中継基地として、数多くの若き特攻隊員たちの出撃を見送った場所でした。昨年、福岡に来てくれた友人の、お父様が大刀洗航空学校に所属していたということでした。航空学校はすべての人のあこがれであり、優秀な人材がそろっていたそうです。連休中であったこともあり、大勢の人が訪れ、特別企画で映画上映、読み聞かせの会も行われました。若くして国のため、天皇陛下のためにということで突撃していった特攻隊員の言葉のなかに、「死の恐怖を感じることはなかった」という一文ありました。忘れてはならない戦争の悲劇を通し、平和の大切さを教える記念館を訪れる人が、平和を願い、平和の道具としてなすべき業を見出し、全ての人の命が大切にされることを祈り続けて欲しいと思いました。決して平和を諦めず、キリストの十字架による真の平和の実現を祈り続けてまいりましょう。

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