「主イエスの道」2026年5月2日 復活節第五主日 説教要旨

第一日課 使徒言行録7章55~60節
第二日課 ペトロの手紙Ⅰ 2章2~10節
福音書  ヨハネになる福音書14章1~14節


主イエスの道

今日の福音書日課は「心を騒がせるな」という言葉から始まりました。イエス様はエルサレムに入られ、いよいよその最後のときが近づいてきました。弟子たちの足を洗われ、そしてユダの裏切りを予告し、ペトロの離反を予告します。弟子たちは自分たちといつも一緒にいてくださると信じていたイエス様が「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と言われたので不安になり、胸騒ぎがしたのでしょう。イエス様は心騒がせている弟子たちの気持ちをお察しになられて「心を騒がせるな」と言われます。そしてその主イエスに従っていこうという気持ち、信仰が揺らいでしまっている弟子たちをも受け入れておられました。

「神を信じなさい。また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある」イエス様は、主イエスを信じるものには、私の父の家に住まいがある。つまりは神の国に迎え入れられていると語られました。そのことを知らせるために主イエスは永遠の世界からこの世界に人の子になって遣わされました。永遠の世界から、私たちの限られた時間を持つ世界に来られました。無限の世界のお方が有限の世界の中に、永遠の方が時間の中に入って来られたことによって、私たちは、主イエスにつながることができ、永遠の世界に招きいれられるようになったのです。

先日二日市教会の聖書の学びのとき、死の恐怖の話になりました。誰しも死ぬのは怖い。それは信仰がないからなのだろうかということです。死は誰も経験したことがないし、私たちは死を経験した人の話を聞くこともできません。しかし誰しも死を逃れることもできないし、そのときがいつどのようなかたちで訪れるのか、予想することも操作することもできないことです。だから恐怖を抱くのです。死について、安楽死が認められている国や地域では「死ぬのなら安楽死がいい」という著名人がいるほど、治療を望まずに安楽死を望むかたが確実に増えています。重篤な病気を患ったときには、インフォームドコンセプトがなされ、どのような治療を望むか早い段階で問われることがあります。死についても場合によっては医者から問われ、自分である程度、選択決定することができる、つまりは死を操作できるようになってきました。どのような死を望むのか、早い段階において自分で決め、家族と話し合い、死の準備をしておくことによってある程度、死の恐怖は和らぎ、そして安心して死を迎えるということではなく、安心して生きることができるようになる、死を生きることができるようになるということもあります。しかし突然の事故や病気のときには、本人の意思を確認することもできないことが多いですから、家族は最後の最後まで最善の治療を続けて欲しいと望みます。ただ生きていてくれさえすればと望みます。死は本人にとってだけではなく、近くにいる家族にとっても恐ろしいのです。

死の恐怖は誰しも抱くものであり、まさにそのときが近づいたとき、そのときを宣告されたときは、「心騒ぐとき」となります。弟子たちはイエス様がその死を予告されたときに、心騒がせたのは、当然のことなのです。「神を信じ、また私を信じなさい」と言われても、何を信じたらいいのか、私たちのために場所が用意されていると言われても、いったいどのような場所なのか、安心できる場所なのか、本当にそこが父の家なのか・・・様々な不安を感じ、ますます心は騒がしくなるかもしれません。イエス様が、「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と語られたとき、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が分かるでしょう。」と問い返します。フィリポも「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言います。

トマスに対してイエス様は、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のものにいくことはできない。」と答えられました。この「道」というのは、道路、英語でいう road, streetのことを差しているのではありません。日本語では、道ということばは、「柔道」「剣道」「華道」「茶道」「書道」といった学問や芸能など専門分野を極めて行くことも「道」と呼びます。「道」という漢字は、目的地まで主導すると言う意味の「首」と「行く」「進む」を意味する「しんにょう」が合わさった文字です。「道」には目的まで導くという意味がありますから、ある境地に達する、専門分野を極める、教えるという意味をもつことになります。「私は道である」とイエス様が語られたこの言葉は、単にイエス様が父の家に至る道を示して下さる方であると言う意味ではなく、イエス様ご自身が「道」である、神様につながっている道そのものであるであるということです。イエス様はさらに「真理」そのもの、「命」そのものであるということ、イエス様ご自身が「救い主」となって、イエス様を通して私たちは永遠の世界とつながっていることができるということを示されました。

フィリポの「主よ、私たちの御父をお示しください」という問いに対して、イエス様は「私を見た者は、父を見たのだ」とお答えになりました。イエス様は、見える形となって、人間の姿になって私たちの世界に来てくださいました。そしてイエス様を通して、人間は父なる神を見ることができるようになりました。「私が父の内におり、父が私のうちにおられる」「父が私のうちにおり、その業を行っておられる」「私が父の内におり、父が私の内におられる」と言葉を変えて、イエス様は父なる神と一体であるということを語られています。

「私は道である」、イエス様ご自身が「道」であるということは、私たちの方から探し求めて、その道を見つけ出さなければならないことではありません。イエス様がこの世に人としてきてくださったのですから、その道は、すでに私たちの目の前に備えられています。旧約聖書のバベルの塔の物語で、人間は塔の頂が天に届くようにして、名を上げよう、神のようになろうとします。しかし主は彼らの言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにし、全地の面に散らされます。人間が神のようになることはできない、人間の方から天に届くことはできないことを示されました。私たちが父の家に導かれるのは、イエス様とつながることによってはじめて可能になるのです。人間の世界と神の世界がつながるとすれば、それは二つの世界を結び合わせてくださったイエス・キリストによらなければならないのです。

「私は道であり、真理であり、命である」イエス様ご自身が道となり、私たちを神の国へと導いてくださいました。天の父の家に連なることを許してくださいました。私たちは主イエスを通して、父なる神を見ることができ、主によって生かされている、新しい命が与えられました。死の恐怖からも逃れられる新しく生きる力が与えられたのです。道である主イエスにすべてを委ねて生きることができる、この恵みに感謝し、ここから歩み出してまいりましょう。主はいつも道となって、私たちと共にいてくださいます。

 

福岡に「戻る」から「帰る」と感じるこの頃・・

先週の月曜日、ロンドン時代から親しくしていた方の葬儀に列席するため、日帰りで東京に帰りました。在英中は、午前中は地元の教会で礼拝を守り、午後はロンドンに駐在、在住、または留学している日本人を対象にしたJCF(Japanese Christian Fellowship)という超教派の日本人の礼拝に出席していました。その時以来、家族で親しくしていた方のご主人のご葬儀でした。奥様は日本にいるときから熱心に教会生活を送っておられましたが、ご主人はロンドン滞在中にJCFで洗礼を受けられ方でした。彼らはロンドンから帰国後しばらく熊本にいらしたこともあり、そのときは、室園教会に所属し、東京では、日本基督教団目白教会に所属しておられました。ご葬儀では、35年ぶりにJCFでご一緒だった方にも数人お目にかかることができました。
平日の日中の山手線は、ラッシュ時と変わらないくらいの混雑で、渋谷、新宿などの駅は人で溢れています。電車に駆け込む人にぶつかりそうになったり、ホームに溢れる人に押されたり、東京の人の多さには慣れていたつもりですが、こんなに人が多かったかなあと戸惑いを感じました。
葬儀を終え、母が目白の保育専門学校で教鞭をとっていたころに好きだった老舗の和菓子屋さんに立ち寄り、母が好きだった和菓子を購入して母を訪問しました。母は、その和菓子屋さんのことも、また好きだった和菓子のことも覚えてはいませんでしたが、とても美味しそうに食べてくれました。
飛行機の出発を待っているとき、三陸沖の地震のニュースが流れ、心配しましたが、特に遅れもなく、19時の飛行機で福岡に戻りました。あわただしい日帰りの帰省でしたが、東京の人の多さに戸惑い、この4月に地方から東京に移り住み、東京での生活を始めた人は大変だろうなと思いました。JR二日市駅から教会までの道、ウツギ、テッセン、ツツジ、ヤナギラン・・・花の香に包まれ、「二日市に帰って来た」とほっとする自分がいました。いつの間にか「福岡に戻る」から「福岡に帰る」と思うようになったこの頃です。

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