第一日課 列王記上3章5~12節
第二日課 ローマの信徒への手紙8章26~39節
福音書 マタイによる福音書13章31~33節、44~52節
来たらせたまえ 主よみ国を
今日の福音書日課は「天の国」についての譬えのオンパレードのような箇所ですので、終わりの讃美歌も「神の国」から選びました。教会讃美歌290番は、1~3節の最後の歌詞が「来たらせたまえ、主よみ国を」と歌います。イエス様がガリラヤでの宣教の初めに「神のみ国は 近づけり」と告げられたそのときからすでに時がたってしまっているけれど、神の国を祈り求め続けたいという思いを歌っているのでしょう。ガリラヤの地で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語られたイエス様の声が、ガリラヤに吹く風と共に、届くように感じられる讃美歌です。
私たちは、「天の国」とはどんなところなのだろうかと考えたり、イメージを抱いたりします。イエス様はさまざまなたとえを用いながら、天の国のいろいろな側面について教えられています。13章に限らず、18章、20章、22章、25章でも別のたとえを用いて語られています。そしてこれらすべてのたとえを組み合わせていくと、天の国のイメージがより具体化するように思います。
「からし種」と「パン種」のたとえは、どちらも最初は小さなものです。しかしその小さなものが大きくなったり、物を膨らませたりするという共通点があります。「からし種」には色々な種類があり、植物学的には、からし種は種の中で最小とは言えませんが、パレスチナ地方で栽培されていた種の中では最も小さい種で、成長すると、3m程に伸びます。なかには、5mぐらいまで伸びるものもあったようです。からし種は滋養を生み出す植物で、からしの葉は煮て食べたり、生のままサラダとして食べたりすることもできました。また種は、油としても調味料としても、健康に良いものとして使われていました。しかし、からし種は生命力が強く、大きく育つだけではなく、野生化して荒れ地でもどこでも育ち、広く拡散するので、管理するのが難しく、他の作物をだめにする危険性もありました。
からし種は、極めて小さなものから始まっても、その小ささとは対照的に、天の国にふさわしく大きく成長し、鳥たちが宿るようになります。鳥たちが宿るほど大きく成長するというだけではなく、鳥たちが安心してそこに集まってくるような場所、癒しの場所となっているということです。イエス様の話を、聞きに集まってきた農民にとって、からし種は、畑の端や家の野菜畑の隅で育つ、灌木で、イメージしやすかったことと思います。小さいものが大きく育つというだけではなく、からし種は医療的な癒しの力も持っていました。鳥たちが集まることによって、鳥が糞を落とし、畑の土も豊かになりました。単に小から大だけではなく、「天の国」のたとえとして用いられた「からし種」は、鳥たちにとっては安心して過ごすことができる場所になり、人間の体にとっては、治癒力もある。そして畑の土をも豊かにするそのような幅広い意味をもちます。「天の国」はそのようなところなのです。
「パン種」は自分の力で大きくなるのではなく、粉に交じって、パンを膨らませます。3サトンとは約40ℓ、100人分くらいのパンができるそうです。それほど大量の粉であってもほんの少しのパン種が入れば、パンを膨らませることができます。しかしパン種というのは、ユダヤでは、ほとんどの場合、悪い意味で使われていました。パン種には「腐敗・悪」といった否定的なイメージが強かったのです。イエス様ご自身も「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい(マタイ16:6)」と言われていますし、パウロも「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです(Ⅰコリント5:6~7)」と言っています。このように、パン種の否定的なイメージが定着していた文化の中で、イエス様は「天の国はパン種のようなものである」と言われたのです。常識をひっくり返す逆転の発想です。
イエス様が描かれている「天の国」は、「腐敗したパン種」のように人々から見られていた罪人、貧しい人、身分の低い人、病気や障がいをもつがゆえに社会的共同体から排除されていた人の中で拡がり、必要としている人のために始まります。イエス様が人々に語られている「天の国」は、社会的地位の高い人のためでははく、社会から否定されている人々の間でこそ始まります。そして「天の国」「神の支配」は、パン種を入れて膨らんだ豊かなパンによって多くの人が満たされるように、すべての人のいのちを生かすものとして拡がっていくのです。
「天の国」のたとえはさらに続きます。「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う(44節)」当時のユダヤでは、自分の財産を守るために、土の中に隠しておく習慣があったようです。ところが財産の所有者が突然死んでしまったような場合、それが誰にも知られないままになってしまうことがありました。誰のものかわからないその財産は、その土地の所有者のものになります。たとえの中に出てくる登場人物は偶然に畑の中に宝を見つけます。そのことを誰にも言わずに必死になってすべての物を売り払ってお金を集めて、畑を買い、隠された宝を自分のものにします。
別のたとえが続きます。「天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う(45~46節)」この人は、商人ですから、真珠のことは詳しく調べていたのでしょう。そしてとうとう高価な真珠を見つけます。先ほどのたとえとよく似ていますが、畑の中の宝は偶然に見つけたものでしたが、価値のある真珠は必死に探した結果見つかったものです。
私たちとイエス様のとの出会いも同じようなことがあるのではないでしょうか。パウロは、キリスト者は、神を汚す奴らだと思い、迫害していました。ところが、ダマスコ途上において、突然「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と主の声を聞き、その声が、自分が迫害している主イエスの声だと知ると、180度人生が変わりました。彼は求めていないのに偶然に主イエスに出会いました。畑に見つかった宝物のような出会いです。
前半二つのたとえと、後半二つのたとえで強調されている「天の国」は異なり、それぞれに「天の国」の一つの側面を表し、そして全体を表すものではありません。しかし「天の国」は喜びに満ちたところであることは間違いありません。主イエスは、「天の国」に私たちを招いてくださっています。突然の出会いであるかもしれないし、捜し求めて見つけ出されるものなのかもしれません。イエス様は、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にある」と言われました。「来たらせたまえ、主よみ国を」、「天の国」「神の国」はわたしたちの間にあるのです。持っているものをすべて売り払ってつぎ込んでも、その喜びのときに連なりたい、「来たらせたまえ。主よみ国を」と祈り求め続けいたいと思うのです。
車内は、安心できる場所なのか・・・
私は、毎朝7時11分西鉄二日市発の大牟田線特急に乗って西鉄久留米に向かっています。朝の通勤、通学の時間帯ですので、そこそこ混雑していて、殆ど同じ人が乗車しています。かつて朝の通勤、通学時間の車内は、多くの人は新聞を広げ、学生は参考書や本を読んでいたり、予習をしたりしていることが当たり前の光景でした。しかし今は9割の人がスマホを片手にそれぞれの画面に見入っています。中には、立ったままスマホを片手に丁寧にお化粧を始める女性、立ったまま朝ごはんを食べる女性もいます。今や車内は、公けの場ではなく、プレイベ―トの場所となっているのでしょうか。いつもドアの側に、同じ学校の女子高校生が2人立っています。同じ制服を着ているので、友人でしょう。ある日、その一人が、気分が悪くなったのか、その場に座ってしまいました。すると、もうひとりの友人は、LINEで文章を打ち、友人に見せます。そして座ってしまった高校生もLINEで返答します。二人のやりとりの直接の会話ではなく、LINEで続きます。結局は気分が悪くなっていたわけではなく、すぐに立ち上がって、久留米駅で二人とも下車しましたが、車内でのやりとりは直接の会話ではなく、すべてLINEでのやりとりでした。コロナを経て、車内で直接言葉を交わす会話は憚れるようになったのでしょうか。学校や教室では、対面のコミュニケーションはできているのか、教師とのやりとりもタブレットを通しての会話が主流になっているのか、不思議に思う出来事でした。家庭での親子、兄弟の会話もLINEなのでしょうか。礼拝で、神の言葉を伝えることも、今や肉声でも難しい時代なのかと疑問を感じました。