第一日課 使徒言行録2章14a、36~41節
第二日課 ペトロの手紙Ⅰ1章17~23節
福音書 ルカによる福音書24章13~35節
心が燃えていたではないか
今日のこの福音書日課は、ある意味で、ルカ神学の頂点と縮図と言われています。「この日」と書いてあるのは、イエス様が復活された日、日曜日である週の初めの日のことです。この二人の弟子たちは、イエス様はもうこの世にはおられないと思い、エルサレムから自分たちの生活の拠点であったエマオに帰ろうとしています。エルサレムからエマオまでは60スタディオン、10㎞ほど、歩くと、2~3時間かかる距離になるでしょうか。その道々二人の弟子たちは、ここ数日エルサレムで起こった出来事について話し合っていると、イエス様御自身が近づいてきて、一緒に歩いて行かれました。なぜこの弟子たちは一緒におられる方がイエス様であると気付かないのか、不思議に思います。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあります。
ヨハネ福音書では、復活の主イエスに最初に出会ったマグダラのマリアは、イエス様に「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問われた時に、イエス様と分からず、園丁かと思います。彼女は「マリア」と名を呼ばれてはじめて目の前におられる方が、イエス様であると認識します。
このエマオ途上の出来事のあと、イエス様御自身が弟子たちの真ん中にたち、「あなたがたに平和があるように」と言われたときも、弟子たちは、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。十字架の死から三日目の朝、女たちが朝早く墓に行ってみると、ご遺体は墓の中になく、天使たちが「イエスは生きておられる」と告げました。婦人たちはすぐに、弟子たちに伝え、ペトロは墓まで走って見に行きます。彼らは、イエス様のご遺体がもはや墓にはなかったということは見たけれど、天使に告げられた「イエスは生きておられる」という言葉は信じることはできませんでした。
「ああ、愚かで、心が鈍く、預言者たちの語ったことすべてを信じられない者たち、メシアは、これらの苦しみを受けて、栄光に入るはずではなかったか。」とイエス様は言われました。それまで、イエス様は弟子たちに受難と復活の予告を何度もされていました。あるときは、「この言葉を耳に収めておきなさい。人の子は人の手に渡されようとしている(9:45)」と言われても彼らは「弟子たちはその言葉が分からなかった。彼らには隠されていて、理解することができなかったのである。彼らは、怖くて、その言葉について尋ねられなかった(9:46)」彼らはいつもイエス様の近くにいて、共に行動していたにも拘わらず、理解することができないだけではなく、怖くてその言葉の意味を尋ねることさえもできないでいたのです。復活の主がその姿を見せて現れても、彼らと一緒に歩いてくださっても、彼らは、目の前のイエス様を復活の主として理解することができないのです。
夕方になり、一行は目指す村、エマオに近づいていました。なおも先へ行こうとされるイエス様を彼らは引き止め、宿泊して一緒に夕食をとることになります。そこでイエス様が「パンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しになった(30節)」ここで初めて二人の目が開け、目の前にいる方が「イエスだと分かった(31節)」のですが、イエス様のお姿は見えなくなってしまいます。イエス様が誰であるかが分かったときには、見えなくなった。しかし彼らは見えなくてもイエス様が生きておられる。私たちと一緒におられるということを理解できるようになったのです。彼らはすぐに立ち上がり、再びエルサレムに戻り、11人とその仲間が集まっているところに行き、道々聖書の説き明かしを聞いて心が燃えていたこと、パンを裂いてくださったときにイエスだとわかったことなどを夢中で話したのでしょう。復活のイエス様ご自身によって目が開かれ、鈍くなっていた心が開き、一人でも多くの人に語らずにはいられない状態になったのです。
このエマオ途上の出来事は、私たちの礼拝の基盤であるということができます。週の初めの日である日曜日、エマオへの途上、弟子たちは復活された主に出会います。そして聖書全体の説き明かしを聞き、聖餐に与り、すぐにこの出来事を他の弟子たちに語るために立ち上がります。つまり「招き」「み言葉」「聖餐」「派遣」の要約がこの出来事には示されているのです。改定式文は、このエマオ途上での出来事を基盤とし、私たちの主日礼拝を聖書に始まる礼拝の連続性ととらえ、「招き」「みことば」「聖餐」「派遣」と4つのパートで作られました。聖書に基づいた礼拝の構成になったということです。
「招き」とは、神によって招かれ、集まることです。私たちは日常の生活において、神様から心が離れてしまいます。週の初めの日、主の復活を覚える主日にこの場に招かれ共に集うのです。
神の「招き」に応えて集う者に与えられるのが「みことば」です。第一の朗読、第二の朗読に続き、福音書の朗読を聴きます。そして福音書朗読に続き、すぐに説教がなされます。
私たちは、神の言葉を聞くだけではなく、神の憐みを「聖餐」という見える形で食べ、飲むのです。イエス・キリストの体と血による聖餐は、「見えるみ言葉」です。洗礼の恵みを受けた私たちは、聖餐を繰り返し受けることができます。主の食卓、聖餐に招いてくださる主人はイエス様です。イエス様は、私たちの罪が赦され、神様との交わりを持つことができるように、ご自身の体と血をもって平和をもたらし、私たちを罪の奴隷から解放され、新しく生きる者、復活の主によって生かされる者としてくださいました。
改定式文では「奉献」を「感謝のささげもの」と呼び、「派遣」の中に置かれました。「奉献」は私たちが何かの犠牲をささげる行為ではなく、賜った恵みを人々と分かち合い、教会の宣教のため、世界で困窮する人々のために集めるものだからです。
私たちは、エマオ途上の出来事からの連続性の中で、週の初めの日、この場に招かれ、み言葉に耳を傾け、聖餐の恵みに与り、再びここから派遣されて行きます。み言葉によって、目が開かれ、主の姿は目には見えなくても、主が共にいてくださる、共に歩いてくださることを信じてここから派遣されていく、歩み出していくことができるようになるのです。エマオへの行く道で復活のイエス様が弟子たちと共に歩かれたように、主は、私たちと共に歩いてくださっています。復活の主は遮られた目を開いてくださり、ここから送り出してくださるのです。

ロバート・ツンド 『エマオへの道』
唐津への小さな旅③ 肥前名護屋城
唐津への旅の二日目は、名護屋城跡に行きました。名護屋城は、豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に、国内拠点として築いた城です。わずか5か月で築城され、当時の大阪城に次ぐ規模を誇った城でした。周辺には、全国から参集した大名の陣屋が150以上も建てられ、人口20万人を越える城下町が出現し、国内でこれほどの名だたる武将が一堂に会した城、陣跡はないそうです。7年間のみ存在した幻の都市、様々な人々が集い、文化が花開いた日本文化発展の「はじまりの地」です。桃山時代の中で最大級の城跡で、極めて重要な文化財です。名護屋城博物館の、常設展示では、文禄・慶長の役と、その出兵拠点となった特別史跡「名護屋城跡並陣跡」を中心に、日本列島と朝鮮半島との交流史が紹介されていて、「黄金の茶室」も復元されています。関ケ原の戦いの後、寺沢広高が唐津城築城の際に、その一部の遺材を使用したと言われていますが、江戸時代初期に石垣は人為的に破却されました。現在は石垣の一部のみ残っています。その城跡からいかに大きな城であったかが推測でき、朝鮮半島をも我が物としようとし、出兵拠点を築いた秀吉の野望、そしてそれに従わざるを得なかった諸大名の陣跡・・・たった5ヶ月間の築城のためにどれだけ多くの労働者を要したことか想像ができます。江戸時代初期、1637年、島原の乱で廃城となっていた島原城が一揆勢の拠点となったため、その教訓から、幕府が「豊臣秀吉の軍事拠点」が再び一揆勢に利用されることを危惧し、徹底的に破壊したといいます。秀吉の朝鮮出兵における権力の象徴であったため、江戸幕府が豊臣の威光を消し去る目的だったとも言われています。
人間は自分の力を誇示するために、必要以上に大きな建造物を建設する。そして敵の力を抑えるために徹底的に破壊する。広い敷地に残る城跡から、いつの時代も変わらない人間の愚かな野望を感じました。
