「目を覚ましていなさい」2026年11月7日 聖霊降臨後第24主日 説教要旨

第一日課  アモス書5章18~24節
第二日課  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13~18節
福音書   マタイによる福音書25章1~13節


目を覚ましていなさい

今日の福音書日課は、祝いの席にもかかわらず、大変厳しい物語です。花婿がやってくるのを10人のおとめが待っていました。彼女たちは花嫁の友人で、花嫁に付き添い花婿の家へと向かうことになります。この行進のときには、おとめたちが灯火をもって、道を明るく照らしました。花嫁の友人である10人のおとめにとって、この行進に加わることは、自分たちを人々に見せる絶好のチャンスでもありました。また灯火の担い手としての大切な役割をきちんと果たすことができる女性であることを示すことも重要なことでした。

しかし花婿の到着が遅れたため、おとめたちは皆、居眠りをはじめ、ついに全員が眠ってしまいます。そのようなとき、突然「花婿が到着した」という声がして、彼女たちは飛び起きます。しかしもうすでにランプの火が消えかかっています。10人のうち賢い5人は予備の油を用意していましたが、愚かな5人は予備がないので、あわててしまいます。そこで予備を持っていた5人に油を分けてくれるようにと頼みます。しかし賢いおとめたちは、冷たく「分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」と断ります。愚かなおとめたちは仕方なく店に買いに行くと、その間に花婿は到着し、戸は閉められていました。開けてくれるように必死になって懇願するのですが、主人に「私はお前たちを知らない」と言われてしまうのです。

この譬え話は、花婿はキリストを表し、キリストの再臨に備えて準備をしておきなさいという寓喩であると解釈されてきました。キリストの再臨のときは、いつやってくるかわからないが、そのときは必ずくるのだから準備をしていなさいという教えだということです。しかし人間は、ずっと目を覚ましていることなどできないし、いつやって来るか分からない再臨に備えて準備することは簡単なことではありません。この譬え話は理解できないというよりも不快感さえ抱く点が多いように思うのです。

賢いおとめたちは、なぜ愚かなおとめたちに油を少しでも分けてあげることはできなかったのか。当時の民衆は、生活用品でも食料品でも困った時には、お互いに貸し借りすることが常でした。日常の助け合いがあったからこそ、ローマ帝国の支配下における厳しい生活の中でもなんとか生きていかれたのです。ましては婚宴というおめでたい席です。そのようなときはお互いに助け合い、喜びのときを共に祝うことが当然のことであり、助け合いができないことはお祝いの席を台無しにしてしまうことにもなりかねません。愚かなおとめたちは、充分な備えができていない考えの甘い者だったのかもしれません。しかし貧しくて予備の油を用意するほどの経済的なゆとりがなかったのかもしれません。

そして主人の態度も大変厳しいものです。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に、新婦の父の家から新郎の家に向かう結婚の行進が始まり、そして新郎の父の家に到着し、賢いおとめたちは祝宴の場に入ります。愚かな乙女たちは、行進に参加することもできず、戸が閉められ、祝宴に入れてもらうこともできません。しかも主人から「私はお前たちを知らない」とまで言われてしまうのです。愚かなおとめたちは、確かに予備の油を用意することはできなかったかもしれませんが、このおとめたちも新婦の友人として祝宴に招かれたゲストです。ゲストを「私はお前たちを知らない」と言って追い返すということは、当時の人々には、考えられないことでした。パレスチナの世界では、ゲストを温かく迎え入れることは重要な伝統文化でした。たとえ見知らぬ旅人であっても必要不可欠なことでした。ですから聞いていた聴衆は、この主人の冷たい態度に怒りを感じ、不快感を持ったことでしょう。

私たちの地上の世界では、分かち合わなければならないことはたくさんあります。教会に共に集い、共に祈り、信仰を分かち合います。共に祈りを合わせ、信仰の経験を分かち合うことによって私たちは強められます。教会の外にあっても、私たちはさまざまなものを分かち合って生きています。喜びを分かち合い、痛み、苦しみ、悲しみを分かち合う、人は支え合って生きています。

しかし分かち合えないこともあります。自分で決断をしなければならないこともあります。また自分で責任を負わなければならないこともあります。他の人と分かち合うことができない、どうしても自分で担わなければならない領域もあるのです。罪というのもそのような領域のことです。他の誰も罪を引き受けることはできません。友人として、親として、赦すことはできても、代わってあげることはできません。

他の人たちが入り込むことができない最たるものは、「死」です。死だけは分かち合うことはできません。多くの人に愛され、誰よりも恵まれた人生を送った人であっても、人はひとりで死んでいかなければなりません。どうしても自分で決断をしなければならないとき、自分で担わなければならない罪、自分の死を受け入れなければならないとき、そのようなときにこそ私たちは主イエスと出会うことができるのではないでしょうか。主が傍らにたって、支えてくださっていること、手を差し伸べてくださっていること、そのような主に出会うことができるときなのです。

もう一つ大事なことは、花婿が到着するまで、扉は開かれているということです。天の国への扉であるとすればこの扉は私たちの前で開かれているということです。その扉が閉められる時は、いつのことになるか分からないから見失わないようにするということです。主イエスは「目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないのだから」と言われます。しかしこの譬え話のなかで、賢いおとめたちがずっと目を覚ましていたかというとそうではありません。「賢いおとめ」も眠ってしまっていました。「賢いおとめ」と「愚かなおとめ」の違いは眠っていたか、起きていたかということではなく、油を用意していたか、用意していなかったかということでした。

「油」は、「信仰」「良い行い」のように他の人に分けてあげることができないものと解釈されてきました。しかし私たちは、自分の力で十分な油を用意しておくことなどできないのです。必要な油は、主が与えてくださる、主から与えられる恵みです。主から恵みを与えられることによって、私たちは信仰をもって生きることができるようになるのです。私たちは教会につどい、共に祈り、共にみことばを受け取ることによって、油が主から与えられていることに気づかされます。自分では用意することができなくても、主が私たちに必要な油を用意して与えてくださっています。ずっと目を覚ましていることなどできないし、自分で必要な油を用意しておくこともできない私たちです。そのような私たちであっても、私たちの前に「天の国」への扉をあけて待っていてくださり、「わたしの父の家には住むところがたくさんある(ヨハネ14:2)」と主は招いてくださっています。その招きに応えるべく、主を待ち望んで生きること、主に従って歩む道が主によって示され、備えられています。私たちはただ主の恵みを受けて、全てを主に委ねることによって、安心して生きることができるのです。

 

熊本地震復興支援チャリティーコンサートを終えて

皆さんで祈りつつ、準備を進めてきた熊本地震復興支援チャリティーコンサート、HUEのお二人のコンサートを無事に終えることができました。教会主催のコンサートは初めてのことでしたので、手探りの作業でしたが、大勢の方が教会に足を踏み入れてくださり、大盛況のうちに終えることができ、皆さんのご奉仕に心より感謝申し上げます。何よりもHUEのお二人の温かく、柔らかな歌声に心慰められ、恵みに満ちた豊かな時間を過ごすことができました。

今回、プログラムの中に3曲の讃美歌をリクエストし、入れていただきましたが、お二人が教会で行うに相応しいプログラム構成を考えてくださり、教会に連なる者も、また初めて教会に来られた方も、共に満足できる選曲でした。

『あなたの肩を借りたら(You Raise Me Up)』 は、やぎりん版の日本語訳では初めて聞く曲でした。「あなたが支えてくれるから、私は山の上にも立てるし、嵐の海も渡れる」という歌詞は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)」の御言葉を思い起こします。主が苦しみのとき、悲しみのとき、どんなときにもその肩を貸してくだることを確信し、力をいただきました。

私は、1985年8月12日、御巣鷹山の尾根での日本航空123便墜落事故で、犠牲となった坂本九さんのお嬢様ふたりが在籍していた学校に勤務していました。520人の犠牲者のなかに、坂本九さんを含め、3名の保護者が含まれていました。今、長女花子さんは、母校の生徒をはじめ、全国の小中高生や合唱部などと直接交流し、一緒に『心の瞳』を歌いながら、命の尊さや日常の愛を次の世代に伝える活動を続けておられます。幼かったお二人のお嬢様、そしてお母様である柏木由紀子さんのことを思いながら聞いていました。

皆さんはどのようなことを感じられたでしょうか・・・・

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