第一日課 創世記50章15~21節
第二日課 ローマの信徒への手紙14章1~12節
福音書 マタイによる福音書18章21~35節
赦して赦される
今日の旧約の日課は、ヨセフ物語の最後の場面です。ヤコブの死後、ヨセフの兄弟たちは、ヨセフが自分たちのことをまだ恨んでいて仕返しをするのではないかと思い、赦しの再確認をします。彼らは人を介して、「ヨセフが兄弟たちを赦すことを、父ヤコブが願っていた」とヨセフに伝えます。父の言葉によって、自分たちの赦しを願います。ヨセフは「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と語ります。人間同士の赦しであるなら、それは過去の悪しき出来事を忘れ、それを思わないということによって、お互いの間に和解と平和をもたらすでしょう。それはマイナスがゼロになるということです。しかしそうではなく「神はそれを善に変えてくださった」ということは、兄弟たちのヨセフに対するマイナスのできごとはプラスに変えられたのです。すべて神様の計画のなかでなされたことであり、神以外に、このような赦しを成し遂げられる方はおられないということです。
ペトロは、イエス様に「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねました。ユダヤ教では、神は人間の同じ罪を三度までなら赦して下さると考えており、誰かが自分に対して罪を犯したときには、三回までは赦してやりなさいと教えていました。ですからペトロがその上をいき、七回までといったのは、ほめてもらえるだろうと思ったのかもしれません。しかしイエス様の答えは驚くべきことで「七回どころか七の七十倍まで赦しなさい」と言われます。七の七十倍ということは、人は人に対して無条件、かつ無制限に赦すべきであると教えようとされ、「仲間を赦さない家来」のたとえを語られます。
ある王が、家来に1万タラントンのお金を貸していました。1万タラントンとは、私たちの想像を絶する額です。労働者の1日分の給料が1デナリオンでした。1日の賃金をわかりやすく5000円とすると、百デナリオンは50万円です。1タラントンは、6000デナリオンですから、1万タラントンは3千億円ということになります。この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返ししますから」と懇願します。一生かかっても返すことなどできない金額にも拘わらず、「家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしてやった」のです。
この家来は、赦してもらい釈放されたあと、今度は自分がお金を貸している同じ家来の仲間に出会います。百デナリオン、50万円の借金です。彼はこの仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫ります。この仲間は「どうか待ってくれ。返すから」と頼みますが、承知せず、牢屋に入れてしまいます。
今度は、牢屋に入れられた人の仲間が、その場で起こった出来事を見て、心を痛め、主君に一部始終を報告します。主君はその家来を呼びつけ「不届き者、お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言います。主君は怒って、借金を全部返すまで、家来を拷問係に引き渡してしまいます。
このたとえでは、神様が王にたとえられています。私たちの罪、負い目というのは、私たちが一生かかっても、どんなに償っても償い切れるものではありません。それにもかかわらず、神様は私たちの罪をすべて赦して下さいました。一方、私たち人間同士の負い目は、たいしたことではなく、赦すことはできるはずなのに、赦すことはできないのです。
このたとえ話でまず、第一に心にとめたいことは、主君は、家来に対して、「憐れに思って、彼を赦し」何の条件もつけることなく、借金を帳消しにしたということです。無条件で無制限の赦しを与えているということです。私たちは主のために生き、主のために死ぬものとして、主にすべてを委ねて生きるものとされています。それは、まず初めに神様が無条件で、無制限の赦しをすでに与えてくださっているからです。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」主イエスは、こう祈りなさいと教えてくださいました。私たちは、本来、人を赦すことなどできない弱いものです。しかしそんな私たちをも神様はすべてを赦して下さっています。私たちは、神様によって赦しが与えられているから、人に対しても赦すことができるようになるのです。
家来は、同じ家来の仲間に対してお金を貸しています。貸しているものを返せということは、正当な主張です。利息をつけたわけでもなく、ただ単に返済を求めただけですから、この世的には、非難することではありません。しかしこの家来のしていることがおかしいと思うのは、彼自身は一生かかっても返すことが不可能な高額の借金を帳消しにしてもらっているのに、自分は仲間の借金を帳消しにすることはできず、返済を要求したからです。
私たちの生きる世界は、正当な権利を主張し合う中でいがみあい、争いが起こります。そこには何も理由がないわけではなく、何らかの正当な理由があります。それぞれの言い分を聞いていれば、それぞれの筋がとおってはいるけれど、かみ合わないものがあるのです。国と国の関係においてもそれぞれが正当な根拠を持って戦争は始まります。正当な理由で殺し合いが始まってしまうのです。
このたとえ話には、この枠組みから抜け出す鍵があるのです。「借金をすべて帳消しにする」その背後には、主イエスが私たちに罪の赦しを与えるために、十字架の苦しみを受け死んでくださったということがあります。神様が働かれることによって、マイナスの出来事はプラスに変えられる、それは神様のみが成し得ることです。主イエスが十字架の苦しみを受けることによってもたらされた赦しは、マイナスがゼロになるだけではなく、私たちが変えられること、新しい生き方へと促されること、マイナスはプラスに変えられるということです。復活のイエスによって、私たちは新しく生きる力が与えられるのです。
神様の創造された地上では、戦争や紛争が絶えません。AIの戦争利用は、情報分析や標的選定の自動化などにより、現代の戦場の様相を大きく変えつつあります。人と人が相対して闘うのではなく、AIによる機械の操作で攻撃がされている様子をみると、命は軽く扱われているようにさえ感じられます。
「はじめに赦しありき」、神様の赦しには何の条件も制限もありません。私たちの生きる世界で続く、憎しみ、争いを帳消しにしてくださるのは、主イエスが示して下さった赦し、神様の成し遂げられた無条件、無制限の赦しがなければ成し得ません。キリストの十字架による平和の実現を諦めずに祈り続けてまいりましょう。キリストによる平和は、マイナスをプラスに変えてくださり、真の赦しを与えてくださいます。主の平和
指導者の言葉~甲子園 ラストミーティング
少し前のことになりますが・・・この夏の第108回全国高校野球選手権大会は、智辯和歌山の5年ぶり4度目の優勝で幕を閉じました。その裏には、試合に敗れ、甲子園を去った48代表の姿があります。試合後の6名の指導者の語った「ラストミーティング」での言葉が、8月24日の朝日新聞に紹介されていました。
指導者は選手と一緒に戦い、誰もが優勝を目標にし、優勝させたいという強い気持ちをもって甲子園に臨みます。宮城県代表の仙台育英高校の須江航監督の言葉はこれまでも何度か注目されていました。試合後のインタビューでは、他の監督はみな「選手たち」と言うのですが、須江監督は「子どもたち」と言うのが印象的で、本当に家族として、我が子と同じように愛情を注いでいるのだろうと感じていました。
須江監督のラストミーティングの一部を紹介します。「結局のところ最後に諦めないで挑み続けて成功を生むのは、間違いなく失敗したことなんです。だから今日の敗戦というのは、捉え方次第で成長への機会しかないんです。・・・だから今日が終わりじゃなくて始まりってことです。・・・この敗戦が思い出だけじゃなくて次の新しい夢をかなえる原動力になると思うので、考え方次第だっていうのを心にきざんでほしいなと思います」ラストミーティングの言葉は、一つの目標に向かって進んできた選手に対する、はなむけの言葉であり、感謝の言葉です。野球一筋の生活から新しい一歩を踏み出す大切な言葉になります。その言葉は、私たちの心にも響く言葉になり、勇気をもらうことができます。言葉で伝えること、語ることの重みを感じさせられます。