第一日課 エゼキエル書33章7~11節
第二日課 ローマの信徒への手紙13章8~14節
福音書 マタイによる福音書18章15~20節
主もその中におられる
アウグスブルグ信仰告白 第7条には、「教会はすべての信仰者の会衆であり、その人々の中で、福音が純粋に説教され、聖礼典が福音に従って執行される」と記されています。教会とは、集められた聖なる人々であり、教会とは御言葉・洗礼・聖餐という3つの中心へと招かれた人々の群れ、それが教会です。
石居正巳先生著作 『教会とはだれか』には、次のように記されています。
「教会というとき、必然的に石造りの建物や組織としての教会を思い浮かべるが、ルターは、教会とはキリスト教的聖なる民であるという。『だれか』ということによって、制度や組織としての集団、顔をもたない群衆ではなく、『人の顔をもつ教会』を考えさせ、教会に連なるそれぞれの者に、自らの立場と方向を考えさせるということができる。
聖書はキリストが『そのからだである教会のかしらである』(コロサイ1:18他)ことを示している。ルターはローマ教会と決裂し破門されて、新しい組織や新しい形式の教会を立てることを意図したのではなく、本来のみことばに聞き従うキリストの教会と回復しようとした。キリストをかしらとするからだとしての教会は、かしらなるお方とその恵みによって結びついていると共に、かしらなるお方の働きをなし続けるための身体としてある。かしらであるキリストの意志を聞くこと、すなわち、みことばに聞き従うことが求められる。」
今日の福音書日課は、「教会とはだれか」「教会とはどうあるべきか」を示しています。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる」罪を犯した人への思いやりがあります。罪を犯した人を裁くのではなく、忠告し、その人が悔い改めて、神に立ち帰ることを求めます。
しかし「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである。」次の手段を提示しています。これは旧約聖書以来の伝統でした。申命記19章15節には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人によって、そのことは立証されねばならない」人の罪は、一人の証人ではなく、複数の証人によって正しく裁かれなければならないことを記しています。冤罪を避けるためです。
第三段階は「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」ということです。当時のユダヤ人は「異邦人か徴税人」は汚れた者と考えていたからです。この世の裁判よりも教会の裁きは重く恐れられていたのです。
兄弟が罪を犯したときには、まず二人だけのところで忠告し、次に二人、三人、それでも聞き入れられないならば教会でという順番が語られているように思います。しかし教会は本来、人を裁くところではないはずです。教会にとって大切なのは、赦し、和解をもたらすことです。ですから最終的にたどりつくところは、愛と赦しであることが重要です。
第一の日課、エゼキエル書には、「立ち帰れ」と繰り返し語られています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ、立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」主イエスは、ユダヤ人と異邦人、男女、身分など全ての壁を打ち破られました。サマリアの女性を救いに招き、異邦人を癒されました。人々から汚れた者と考えられていた徴税人マタイ、ザアカイを招かれました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である(マタイ9:12)」と語られ、徴税人や罪人と食事を共にされました。イエス様は身分の違いや敵意を超えて赦し合うことを望んでおられるのです。イエス様が教会に対して望まれているのは、神の愛に立ち帰り、罪の赦しと恵みを受けて、新しく生きる道に導かれることです。
福音書の中に「教会」という言葉が使われているのは、今日の日課以外には、マタイ福音書16章18節、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白に対して「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と言われたところです。そして続けて「私はあなたに天の国の鍵を授ける」と言われました。「天の国」というのは、「神の支配」「神様が直接支配されている世界」を意味しています。この地上の世界は、神の力以外のものによって支えられているように思われているけれど、天も地も神によって創造された世界ですから、「神の支配」によって支えられるべき世界です。私たちは「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けているのです。
教会は地上にありながら、「天の国」を垣間見ることができる場所です。イエス様は「天の国の鍵」を教会に託されました。そして「教会の頭」はイエス様ご自身です。「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です(コロサイ1:18)」「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です(エフェソ1:23)」教会の頭が主イエスであるがゆえに、教会がキリストの体であるがゆえに、教会は天の国につながることができるのです。
「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」教会とは、建物のことではなく「キリストの名によって集められた聖なる人々」です。そこには立派な建物がなくても、あるいは牧師がいなくても、すでに教会は始まっています。「キリストの名によって集められた人々、共同体」が存在していればそこは教会なのです。教会のなかには、まだ洗礼を受けておられない方もいます。しかしその方たちも、主によって招かれて集められています。そして主イエスは「わたしもその中にいる(20節)」と宣言してくださいました。「また、よく言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる(19節)」主によって集められ、共に祈ることができれば、私たちの群れの中心に主がおられ、願いを聞いてくださるのです。主が教会のかしらとして、共に歩んでくださっているのです。「どんな願い事であれ、それをかなえてくださる」と確かな約束をしてくださっているのです。
「はかりも知られぬ とうとき主の愛/こころを結びて ひとつとならしむ
わが身は主のもの 主にありて生くる」(教会讃美歌346)
主の愛に結ばれて、心をひとつとして、主にすべてを委ねて、主によって生かされている道を共に進んでまいりましょう。
雹(ひょう)の災い
軽井沢での休暇の最終日、朝の6時頃からものすごい音が響き、雹が降り始めました。雹は、上空と地上の大きな気温差によって「積乱雲」が激しく発達することによって発生します。上空の冷気で水分が凍り、小さな氷の粒ができ、強い上昇気流にのって氷が落ちず、まわりの水滴をまとって大きくなり、重くなって上昇気流で支えきれなくなると、とけきらないまま地上へ落ちてきます。雹が降る主な条件は、内部に強い上昇気流があり、地面付近は温かく、上空に非常に冷たい寒気が流れ込んでいること、氷の粒の直系が5ミリ以上であることです。(5ミリ未満は「あられ」です。)
聖書において「雹」は、主に神の裁きや力を象徴する驚異的な自然現象として描かれています。出エジプト記(エジプトへの第7の災い)、ヨシュア記(敵の撃退)、ヨハネの黙示録(終わりの時)に登場します。 出エジプト記7章14節から10の災いが記されていますが、9章13節から記されているのが、第7の災い、「雹の災い」です。エジプト全土にエジプト始まって以来、かつてなかったほどの雹が降り、野にいた人や家畜、すべての草が打たれ、すべての木が打ち砕かれました。しかしイスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降りませんでした。恐ろしい雷と雹の被害を受けて、ファラオは、イスラエルの人々を奴隷の身分から救い出すことを一度は受け入れましたが、結局は、ファラオの心は頑なになり、イスラエルの人々を去らせず、次の災いへとつながるのです。
今回、軽井沢で体験した雹は、雷と大雨を伴い、大きいものは、ピンポン玉くらいの大きさで、あっという間に地面が真っ白になり、家の屋根、ガラス窓に容赦なく強くあたり、木々の枝、葉が道路に落ちました。これまで出エジプトの記述を読んで、雹がそんなに全てを打ち砕くものかと疑っていましたが、納得できました。軽井沢に住んでいる地元の方もこのような雹は初めての体験だと言っていました。「雹」は、神の裁きや力を象徴するということですが、日本各地で続く地震や大雨災害、ネパールの土砂災害、神の裁きや力の象徴なのでしょうか。