第一日課 イザヤ書51章1~6節
第二日課 ローマの信徒への手紙12章1~8節
福音書 マタイによる福音書16章13~20節
天の国の鍵
初期ルネサンスの傑作、1481年から1482年にかけて制作されたピエトロ・ペルジーの『聖ペトロへの天国の鍵の授与』という作品は、今日の聖書箇所に基づくフレスコ画です。ローマのバチカン宮殿内のシステイーナ礼拝堂の壁画として描かれています。中央に、ひざまずくペトロにイエス・キリストが天国の鍵を手渡している様子が描かれ、ペトロが初代ローマ教皇としての権能を継承していることを表しています。絵の中でペトロが受け取っている鍵は二つあり、金色と銀色です。金の鍵は天を解く鍵として上向きであると同時にキリストの方を向いています。銀の鍵は地上を解く鍵として地面に向かっています。両方の鍵を結ぶ紐は、天国と地上をつなげるという意味があるそうです。使徒ペトロを描いた絵は、多くが「鍵」を持たせることによって、ペトロであることを示しています。12使徒には、それぞれシンボルマークがありますが、ペトロのシンボルは鍵です。
マタイ福音書は、今日の箇所から新しい部分に入ります。これまでイエス様はガリラヤで宣教活動を広げ、イエス様の評判を聞き、かなり遠方からも多くの人々が集まってきていました。このあと、イエス様はガリラヤを出発され、エルサレムへむかって、つまり十字架に向かって歩みを進めて行きます。フィリポ・カイザリア地方はガリラヤよりもさらに北、ヨルダン川の源流です。ここからイエス様の一行は、ヨルダン川を下るようにして、ガリラヤを通り越して、エルサレムへと向かわれていくのです。
この北の果ての地域で、イエス様は弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」と尋ねられました。神の子であるイエス様は、ご自身のことを「人の子」と言っておられました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかにエレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます。」と答えます。洗礼者ヨハネは、主イエスの先駆者として神の審判と悔い改めを訴え、ヨルダン川で洗礼を授けた最後の預言者、人々にとっては記憶に新しい人物です。エリヤは紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍した旧約聖書を代表する預言者です。しかし死を経験せず、火の馬と火の戦車にひかれて嵐の中を天に昇っていったと列王記には記されています。エリヤは再臨すると信じられていました。エレミヤは紀元前7世紀から6世紀にかけて、南ユダ王国の崩壊とエルサレム陥落という激動の時代を生き抜いた預言者です。約40年間にわたり神の審判と悔い改めを訴え続け、迫害を受けながらも誠実に使命を全うした預言者です。人々は、自分たちを苦しみの中から救い出してくださる力ある方、「人生の教師」「偉大な宗教指導者」「社会正義の実現者」「社会の革命を起こすリーダー」を期待していましたから、主イエスに対して最高の評価をしていたということでしょう。
主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と直接、弟子たちに聞かれました。主イエスの問いに対して、ペトロはまっすぐに「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエス様はこのペトロの信仰告白を聞き、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ」と祝福し、「このことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である」と付け加えられました。私たちは、洗礼に際して、信仰告白が求められます。私たち自身の態度を求められ、神と会衆の前で告白します。自分で決心をして信仰を告白するのですが、そこには、見えない神様の導きがあり、神様に導かれて信仰告白をするに至るのです。同じ環境で育ち、同じ経験をし、同じ話を聞いても信仰に導かれる人と、そうでない人がいます。そこには神様の働き、神様の導きがあるからです。私たちは信仰に導かれて初めてそこに神様の働きがあることを知ります。
さらに主イエスは続けられます。「私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私は天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」と言われました。最初にご紹介したペルシ―の『聖ペトロへの天国の鍵の授与』の絵は、ペトロが初代ローマ教皇としての権能を継承していることを表しているとお話をしました。ローマ・カトリック教会では、天の国の鍵を授かった者が、ペトロ直系のローマ教皇であると理解しています。しかしここで大切なことは、ペトロがイエス様の問いに対してすぐに返答をしていること、「あなたはメシア、生ける神の子です」この言葉は弟子たちの代表としての言葉です。そしてこのペトロの信仰告白が「使徒信条」を代表とする信仰告白として、時代を貫いて教会で継承されていくことになります。
イエスの質問に対して即答し、そして「天の門の鍵」を授かったペトロ、しかしペトロの信仰は「岩」のようなしっかりしたものではありませんでした。この問答のあと、主イエスから受難予告を聞かされたときには、的外れな行動に走りますし、イエス様が捕らえられたときには、三回も「私は知らない」と言ってしまいます。「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」という言葉は、ペトロの信仰の上に教会を建てるということよりも、教会の基礎、教会の岩となるものは、「イエスはメシアであり、生ける神の子である」というこの告白そのものであり、そこへ私たちを導いてくださるのが「天の父」であるということなのです。聖なる岩がエルサレム神殿の土台を形造るように、教会の岩は「イエスはメシアであり、生ける神の子である」という告白そのものであると言うことができるのです。
教会とは、ギリシア語ではεκλησιαという言葉で、「招集された民の集会、共同体」という意味の言葉です。Εκ「~から」とκαλεω「呼ぶ」に由来し、「呼び出されたもの、呼び集められたもの」という意味をもちます。教会とは建物そのものではなく、呼び集められた人の集団を指す言葉として始まりました。教会は、εκλησια「招集された民の集会」です。私たちは、「イエスはメシアであり、生ける神の子である」と告白する者としてこの場に集められているということです。主イエスはその岩の上に「わたしの教会を建てる」と言われ、「天の国の鍵を授ける」と言われました。教会は、主イエスから地上における天国への入口として重要な使命が与えられていると考えることができます。地上と天の国を結ぶ紐が託されているということです。
洗礼を受けるということ、「イエスはメシアであり、生ける神の子である」と告白した私たちはすべて、ひとりひとりの状況に応じて「神からの召命」を受けているということができます。家庭人、職業人、市民としての立場・地位・職務を「神からの召命」として受け取り、さらに、その召命感を生み出し支える信仰の源泉として、「教会」における奉仕、「霊的な奉仕」に「神からの召命」を受けていることに気づかされることが必要です。その中で教職としての召命を受ける者が興されていきます。礼拝が信徒の主体的な奉仕と参加によって、キリストの福音から与えられる、深く、強く、喜ばしい力で充たされること、礼拝が最高の宣教の場として用いられることが必要です。「天の国の鍵」を自分のものと思いこむ時に教会は傲慢に陥る危険性があります。私たちは「天の国の鍵」を託された教会に集められた者として、すべての信徒が信徒であることを「神からの召命」としてとらえ、主体的に宣教の業に励むことが求められています。教会は「礼拝共同体」として、「宣教共同体」として成長していくことが求められています。「天の国の鍵」を託されていることを、畏れを持って覚え、ここから派遣され、宣教の業に励まなければなりません。信徒であるという「神からの召命」を受け取り、主と共に、主に導かれて歩み出してまいりましょう。
NHKスペシャル「少女たちの戦争~読み継がれるクラス日誌~」
毎年8月になると、戦争を扱った特別番組が多く放送されます。先週15日にNHKスペシャルで放送された「少女たちの戦争~読み継がれるクラス日誌~」は、私の母校東洋英和女学院中学高等部で行われている、戦時中の学級日誌を用いた平和について考える聖書の授業の特集番組でした。かなり前から学校の史料室から予告され、同級生の間でもメールが流れていましたので、楽しみにしていました。史料室に保管されている学級日誌から、戦時中の生徒の生活を知り、現在と同じ点、違う点を出し合い、戦争中の学院の様子、生活を中学生が想像し、話し合い、平和を求めるということはどういうことか考える授業でした。私も在学中、日直になるとその学級日誌を書いた記憶があります。戦況が厳しくなると、校長であったカナダの宣教師ミス・ハミルトンは、敵国人ということで、生徒に挨拶することもなく、カナダに帰国しました。校名が「東洋英和」から「東洋永和」に変わったこと、英語や音楽の授業がなくなったこと、礼拝ができなくなったことなどは、知っていましたが、勤労動員の様子、5月24日の山の手の大空襲のあとには、学校周辺一帯がほとんど焼け、校舎は、陸軍東京聨隊区司令部として使われたことなど、初めて知ったことも多くありました。
私の母は、在学していましたが、軽井沢に疎開し、小諸高等女学校に通っていたため、最も厳しい時期は在学していませんでした。小諸高女のときの勤労動員の様子、極寒の軽井沢での疎開生活のことは聞いていました。兄に頼み、見逃し配信で見てもらいましたが、当時の様子をインタビューされていた、ピアニストの井上二葉さんは、母の友人でした。
生徒たちが、学級日誌を通して当時の生活を知り、学校の様子、生徒の心情を想像し、真剣に平和について考えている様子は大変興味深く、聖書の授業での取り組みに感銘を受けました。平和を諦めない。キリストの十字架による平和の実現を祈り求め続けていかなければならないと決意を新たにさせられました。主の平和