「いのちの源なる主」2026年6月6日 聖霊降臨後第二主日 説教要旨

第一日課  ホセア書5章15節~6章6節
第二日課  ローマの信徒への手紙4章13~25節
福音書   マタイによる福音書9章9~13節、18~26節


 

いのちの源なる主

今日の福音書日課は、主イエスに出会い、そこから新しく生きる力を与えられ、新しく一歩を踏み出した3人、主イエスの弟子となったマタイ、指導者の娘、出血が止まらない女の出来事が記されています。

最初は、徴税人マタイの召命の話です。当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれていましたから、税金は、基本的にはローマ帝国に納めていました。ローマ帝国は、税金の徴税は、ユダヤ人に委託していましたので、徴税人は、ローマ帝国の手先として嫌われ、軽蔑されていました。徴税人の方も、嫌われ、軽蔑されていましたので、ローマの権力をバックに不当な額の税金を巻き上げていました。マタイの召命は、実に簡潔に記されています。「マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(9節)」主イエスとマタイのやりとりはもっとあったのかもしれませんが、「私に従いなさい」と声をかけられ、そして立ち上がってイエスに従った簡潔なマタイの行動には不自然さも感じます。マタイは自分の仕事について疑問をもち、うしろめたさを感じていたのか。私欲を増やそうという貪欲さがあるわけでもなく、人々から嫌われ蔑まれていることに苦しみを感じていたのか。たった一言「私に従いなさい」という主の言葉、あるいはマタイに向けられた眼差しが彼の心を揺るがすものだったか。簡潔すぎるだけに、理解が難しく感じられます。主イエスがマタイを見て声をかけられたということ、イエス様はいつでもどこでもすべての人に「私に従って来なさい」と声をかけてくださっているということでもあるように思います。そこには、お金の管理を任せられるとか、弁が立つとか、知恵がある、指導力がある、家柄がよいなどと言ったことは全く関係ないということです。主イエスの助けが必要な人、その助けを求めている人に声をかけてくださるのです。

次に登場するのは、一人の指導者とあります。おそらく共同体の指導者で、地域のまとめ役で模範でもあった人でしょう。主イエスが特別な癒しの力を持っているという評判を聞いて、イエス様のところにやってきて平伏して懇願します。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」共同体の指導者である彼が、平伏して懇願するようなことは自分の立場を気にしていたら、とてもできなかったことでしょう。娘の命をなんとか取り戻して欲しいという彼の強い願いを聞き、イエス様はすぐに立ち上がり、彼について行かれました。

しかし指導者の家に行く途中で、12年間出血が続いている女の人が近づいてきました。彼女の病気は、汚れたものとされていました。汚れたものとして人に近づくことも禁じられ、時には家族との接触さえも断たれていました。並行箇所であるマルコ福音書によると、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。医者にかかっても治るどころか、全財産を使い果たしただけで悪くなるばかりだったのです。女性は病に苦しめられていただけではなく、共同体からも家族からも疎外され、財産もすべて、何もかも失ってしまったときにイエス様に出会いました。出会ったというよりも何とか助けて欲しいと自ら会いに行ったのです。汚れたものとして人々から避けられていた女性が人込みの中に入り、イエス様に近づき、その服の房に触れるということは大変勇気のいることだったことでしょう。女性はイエス様の前に出るのではなく、後ろからイエス様の服の房にふれました。イエス様は振り向いて彼女を見て「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、癒されました。イエス様の言葉にある「救った」という動詞は、単に病気を「癒す」という言葉よりも強い、病気だけではなく、すべての苦しみ、悲しみからの救いを表す言葉が使われています。女性は単に病気を癒されただけではなく、これまでの社会から疎外されていた生活、医者からも見放され、全財産を使い果たし、すべてを失った生活から救い出され、新しく生きる命を与えられたのです。

そして最後、イエス様は指導者の家に行かれます。「笛を吹く者たちや騒いでいる群衆」とあります。もうすでに笛を吹く者、騒いでいる群衆がいたということは、葬式が始まっていたということです。指導者の娘の葬儀ですからおそらく大勢の人が集まっていたのでしょう。イエス様ご自身もすでに娘の死を聞いたうえで、彼の懇願を聞き来られました。そして群衆を外に出し、家の中に入り、死んだ娘の手をお取りになり、彼女を起き上がらせました。新しい命、新しく生きる力を与えられました。

イエス様は、徴税を仕事とし、人々から軽蔑されていたマタイに目を留められ、「私に従ってきなさい」と声をかけられ、主イエスの弟子として新しく生きる道を与えられました。12年間出血が止まらず、病が癒されないだけではなく、家族からも社会からも避けられていた女性が服の房に触れられたことに気づかれ振り向いて、「あなたの信仰があなたを治した」と言われました。女性の信仰を受け入れ、単に病気が癒されただけではなく、全てを失った生活から解放し、新しく生きる力が与えられました。指導者の娘は、すでに死んでしまっていたにもかかわらず、世間体や自分の立場を気にせずに、イエス様の前にひれ伏し、懇願した指導者の信仰によって生き返りました。それぞれ、その後どのような生活を送ったかということまでは記されていません。しかし、イエス様は、誰も見捨てることはなさらないということです。通りすがりであっても、どこかに向かう途中であっても、目をとめられ、そしてその願いを聞き、手を差し伸べてくださる方だということです。そして今求めていること、必要としていることを与えてくださるのです。

イエス様は、自らのいのちを絞り出すようにして十字架にかかられ苦しみを受けられました。十字架の死を受けられることによって、私たちの罪をすべて赦してくださいました。そして主イエスは、全ての人に復活によって新しく生きる力、新しいいのちを与えてくださいました。私たちの生きるいのちの源は、すべて主の十字架の死と復活のいのちにあるのです。その主イエスは、ときに足を止められ、ときに振り返り、目を留め、声をかけ続けてくださっています。主イエスの声に、その愛のまなざしに気づかない私たちです。しかし主イエスは今日も変わらずに私たちと共にいてくださり、新しく生きる力を与えてくださっています。自分のいのちを注ぎ続けてくださっているのです。

八女の星野温泉でリフレッシュ

月曜日、幼稚園での仕事を終えて、一泊、八女の星野温泉に行ってきました。台風の接近が心配されましたが、何とか明るいうちに到着。星やホタルを見ることはできませんでしたが、温泉でゆっくり過ごすことができました。一面に広がる茶畑、そして棚田を眺めながら、久留米から1時間半ほどで日常の忙しさから解放され豊かな時間を過ごし、帰りにはうきはの道の駅で、あんずとうめを購入。帰宅後、早速あんずジャムを煮ました。うめは、梅シロップを作ります。連日夏のような暑さが続き、暑さに慣れていない身体はかなり疲れを覚えていましたが、しばしの休息は、自然からたくさんの元気をもらうことができました。福岡に赴任して1年が過ぎ、九州ライフを楽しむ余裕、オンとオフの切り替えがうまくできるようになったのかもしれません。「第七の日は、御自分の仕事を離れ、安息なさった」神様の気持ちがよくわかります。「見よ、それは極めて良かった(創1:31)」神様の造られたこの自然に感謝!
九州北部は梅雨入りしました。雨が続くと幼稚園の子どもたちは外で遊べなくなり、落ち着きがなくなり、トラブルも多くなります。しかし子どもたちが植えた野菜の苗は順調に育ち、キュウリやトマトは小さな実をつけ始めています。6月は、クチナシ、ヤマボウシ、カシワバアジサイ・・・白い花を多く見かけるように思います。クチナシやウツギは、その香に先に気づきます。恵みの雨にも感謝!
台風のために避難を余儀なくされた地域、被害に遭われた地域の方々のために祈ります。

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