「自分の十字架を負う」2026年8月29日 聖霊降臨後第14主日 説教要旨

第一日課   エレミヤ書15章15~21節
第二日課   ローマの信徒への手紙12章9~21節
福音書    マタイによる福音書16章21~28節


自分の十字架を負う

ペトロが「あなたはメシア、神の子キリストです」と信仰告白をしたフィリポ・カイサリア地方からエルサレムまでの距離は直線距離で約170から180㎞です。イエス様一行はこのフィリポ・カイサリア地方、ヨルダン川の源流からガリラヤを通り越してエルサレムに向けて進みます。エルサレム、つまり十字架への道を進まれます。1日歩き続ければ約2日間の距離だといいますが、おそらく途中宿泊しながらの旅ですから、4~5日間の旅になったのではないかと思われます。

「この時から」主イエスの活動はあらたな段階に入り、弟子たちに対して最初の受難予告をされます。20節に「イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、と弟子たちに命じられた」と記されているように、イエス様は「メシア」であるということはどういうことなのか、何を意味するのか、選ばれた弟子たちだけに話されたのがこの受難予告です。イエス様は、「ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」るメシアであることを告げられます。そのようなことを聞かされた弟子たちは、「あり得ない」と思ったことでしょう。ペトロはあわててイエス様を脇にお連れしていさめ始めます。「いさめる」という言葉は、主に目下の人が目上の人に対して、その過ちを指摘して改めさせるために使う言葉です。だからペトロは他の弟子たちの前で正面から忠告したのではなく、イエス様を脇に連れていき、こっそりと忠告したのでしょう。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」英語の聖書New English Version では “Never, Lord!” he said. “This shall never happen to you!” と訳されています。「いけません、主よ、そんなことがあなたに起こってはいけません」というような感じでしょうか。実に率直な反応のように思います。しかしイエス様は、ペトロの言葉に対して、実に厳しい言葉をかけられます。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」と言います。「退け、サタン」イエス様が荒野で悪魔から誘惑を受けたときと同じ言葉をペトロに対して言われるのです。「必ずエルサレムへ行く」というのは神様の計画であるのに、あなたは、その神様の計画に従って歩もうとする道を妨げるものだと言われるのです。

主イエスはさらに続けられます。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」イエス様に従うには、二つのことが求められます。それはまず、「自分を捨てること」、次に「自分の十字架を負うこと」です。「自分を捨てること」はそう簡単にできることではありません。マタイ福音書19章でイエス様のところにやってきた「金持ちの青年」は、自分の持ち物を売り、貧しい人々に与えることができなかったために悩みつつイエス様のもとから立ち去っていくことになります。世の中には、人のために尽くし、そのために大きなお金を使う人もいます。しかしそうしながらも、自分を捨てることなく、誰にも踏み込ませない、自分だけの領域をしっかりと保ち続けることが多いのではないでしょうか。信仰をもっていても、すべてを捨てて、神様に仕えるのではなく、自分の立場を守りつつ、人に奉仕し、神様に仕える、可能な範囲内で神様に従うにとどまるということです。「自分を捨てる」とは、それまで自分中心に生きてきた人生すべてリセットし、神中心に生きるようになるということですが、そのような生き方はそう簡単にはできません。自分中心な生き方をもちつつ、出来る範囲で神様に仕え、神様に明け渡した部分でのみ恵みを受ける、そのような状態であることが多いのです。

第二に、「自分の十字架を負うこと」、十字架とは苦しみ・重荷です。私たちは生きている限り、何かしらの重荷を抱えています。それを避けることはできません。「自分の十字架」とは自分自身の抱える苦しみや重荷、「人から自分に与えられる重荷」だけではなく、「人のかかえる重荷、教会の抱える重荷を負い合う」ことも含まれています。私たちは互いに苦しみや悩み、重荷を負い合い、祈りにおいて共有しあう信仰共同体だからです。

「自分を捨てること」「自分の十字架を負うこと」は、決して安易なことではありません。厳しく険しい道です。「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。」と主イエスは言われます。しかし私たちは自分の命は何とかして救いたい、守りたいと思います。自分中心になってしまいます。そうした者は、いくら自分で自分の命を守ろうとしても失うと言われます。自分自身の命を主に差し出せば、その人は祝福され、新しい命を得ることができると言われますが、自分の命を主に差し出すことなどとてもできない私たちです。しかしそのような私たちであっても、主に従う道を備えてくださるのです。

今日は終わりの讃美歌として教会讃美歌464番を選びました。

神の子主イエスは 進みたもう
血の染むみ旗に 続くは誰ぞ
苦しみ悩みも 耐えしのびて
十字架を担いて つづくものぞ

 

主イエスは私たちの先にたって、血に染むみ旗、十字架の苦しみを受けられ、その流された血によって私たちの罪をすべて負われて進んでおられます。苦しみも悩みも私たちが負いきれない十字架を、主自らが負ってくださっています。主自らが十字架の苦しみを受けてくださったことによって、私たちは、その主イエスの歩みに続いていくことが赦されているのです。何という喜び、何という恵みでしょうか。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。・・・誰にも悪を持って悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心掛けなさい。・・・すべての人と平和に過ごしなさい。」

今日の使徒書の日課でパウロを教えています。主に従う道を共に歩む者であっても、他の人よりも自分の方が優れている、自分が主に近い場所にいると思いたくなります。人の喜びを自分の喜びのように喜べず、その成功を妬んでしまうこともあります。泣く者と共に泣いているつもりでも、人の悩みや苦しみ、重荷を共に担っているつもりであっても、どこかで自分が優位に立っていたいと思ってしまいます。このような自分中心の私たち、自分を捨てることも、自分の十字架を負うこともできない私たちであっても、主は先立って歩み、そして私たちが道に迷っているとき、道を失いそうになったときには、振り向いて声をかけてくださるのです。「サタンよ、引き下がれ」私たちが主を見失いそうになるときには、私たちの心のサタンを主が追い払ってくださいます。主は前を進みつつ、常に後ろを振り向き、私たちが主に従う道を歩むことができるように気にかけて、声をかけてくださるのです。

苦しみも悩みも 耐え忍びて
十字架を担いて つづくものぞ。

主が先立って歩んでくださる道を、主に支えられ、主と共に歩んでまいりましょう。迷っても、道を失いそうになっても、主は必ず私たちに愛の眼差しを注ぎ、そして声をかけ続けてくださっているのです。

 

福音とは「ふくね」ですか?・・・

毎朝、久留米教会の前の歩道の掃除をしています。繁華街が近い久留米教会付近はたばこのポイ捨てもあります。子どもたちが気持ちよく登園できるように、そして日曜日は、信徒の皆さんを気持ちよく迎えるために、教会の前だけではなく、向かいの会社の駐車場や、お宅の前も掃いています。日ごろ、幼稚園バスを停めさせていただいたり、園児の送迎の保護者の車を停車させていただいたりしていること、日曜日は駐車場を使わせていただいているので、ご近所さんとの交流は大切です。先日その会社の方に「福音、これはなんて読むのですか?ふくねですか?」と尋ねられました。全くキリスト教に関心のない方にとっては、長年教会の前に住んでいらっしゃる方でも、分からないことなのだと驚き、説明をしました。

また先週、園バスが軽自動車の無理な車線変更により接触されたため、警察との事故現場検証に、立ちあわなければならないことがありました。警察官に名刺を渡したところ、「ルーテルって何ですか?どういう宗教ですか?」と問われました。昨今の宗教団体の事件から「教会」というだけでいかがわしい宗教団体をイメージしたのかもしれません。

「福音(ふくいん)」とは、神さまが人間を罪から救うために、主イエスを人の子として世に遣わしてくださったという「救いの知らせ」「よい知らせ」であり、私たちはキリストの十字架の死と復活によって、神さまの恵みと愛を受けて生かされ、永遠の命を約束されたというメッセージです。ギリシア語では、ευαγγελιον(エウアンゲリオン)、「よい」と「知らせ」を合わせた言葉です。

キリスト教にはキリスト者にしか理解されない独特の言葉が多くあります。ひとつひとつの言葉を特別の言葉としてではなく、すべての人が理解できるように分かりやすく伝えていくことの難しさを感じた出来事でした。

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