「恐れることはない」2026年8月8日 聖霊降臨後第十一主日 説教要旨

第一日課  列王記上19章9~18節
第二日課  ローマの信徒への手紙10章5~15節
福音書   マタイによる福音書14章22~33節


恐れることはない

長野県上田市に、「無言館」という美術館があります。第二次世界大戦で若くして亡くなった戦没画学生たちの遺作や手紙などを展示する私設の慰霊美術館です。1997年窪島誠一郎氏と画家・野見山暁治氏によって創設され、現在は約130名の画学生の作品が収蔵されています。「無言館」の名前は、創設者である窪島氏が遺族を訪ねて絵を集める中で感じた、「絵は無言でも見る者に多くを語りかける、また訪れた人が悲しみや悔しさで言葉を失い、無言になる」という2つの思いが込められています。

画学生たちが遺した作品には、恋人や妻、故郷など日常的な風景画が描かれています。そこには既に絶筆になることを予想して、生きている時間をかみしめるように、ひたむきに制作している姿勢が感じられます。画家への志半ばで戦地に赴き、絵筆を銃に変えざるを得なかった若者たちの無念、それでも最後まで芸術への情熱と夢を持ち続けた彼らの魂の叫び、彼らが「生きる証」として残した作品は、現代の私たちに語りかけるものがあります。すべての作品から、単なる絵画というよりもそこには無言で語りかけるものを感じます。鹿児島県・種子島に住んでいた日高安典さんは、出征の半日前まで大好きな恋人の絵を夢中で描いたといいます。外には日の丸の小旗を振る人たちの波、「兵隊さん、行ってらっしゃい!」の声、でも安典さんは「あと5分、あと10分、この絵を描いていたい」となかなか絵筆を置こうとしない。「生きて帰ったら必ずこの絵の続きを描くから」そういって戦争に行ったけれど、ついに帰って来られませんでした。

私は、7、8年前の夏に「無言館」を訪れましたが、1枚1枚の絵から画学生がひたむきに出征前ぎりぎりまで、絵を描き続けた姿を想像し、「希望をもって生きること」「ただまっすぐに心から愛するものをもつこと」を教えられ、なぜか今日の福音書日課、湖の上を歩かれた主イエスの出来事を思い起しました。

5000人の給食の奇跡のあと、イエス様は弟子たちを舟に乗せて、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させました。そしてひとり祈るために山に登られました。そして夕方まで、そこに留まられていました。弟子たちの乗った船は陸からすでに離れていましたが、逆風による荒れた波のために、向こう岸まで行くことができなくなっていました。彼らはイエス様が一緒だったら波を静めてくださるだろうと思い、なぜ自分たちだけ先に行かせたのだろうと心穏やかではなかったことでしょう。たとえ信仰を持っていても不安になり、心穏やかではいられなくなる。嵐に遭えば、疑い迷い、恐れ、たじろぐのです。彼らは湖の上を歩いてこられるイエス様の姿を見て、「幽霊だ」と思い、怖くなり、叫び声をあげます。イエス様は一歩一歩、湖の上を歩かれて彼らに近づきます。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と言われました。「私だ」という言葉は、特別な重みをもっています。「私はいる」とも訳すことが出来る言葉です。イエス様は、私がここにいるのだから、安心しなさいと言ってくださったのです。イエス様がここにおられる、そのことが安心につながるのです。

ペトロはイエス様を見て安心しました。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」と言います。ペトロはイエス様を信じて、自分から新しく歩み出そうとします。イエス様はペトロに向かって「来なさい」と言われました。その言葉を信じてペトロはただイエス様を真っ直ぐに見て、水の上に一歩踏み出します。しかし強い風が吹き、大きな波がやってくると、イエス様の方をまっすぐに見ていたはずの心が乱れ、目をそらしてしまう。すると、すぐに沈みかけてしまいます。しかしここで終わりではありません。ペトロが「主よ、助けてください」と叫ぶと、イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえてくださり、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱責されました。二人が舟に乗り込むと、とたんに風は静まりました。イエス様が先に風を静められ、そしてペトロが水の上を歩き始めたのであれば、ペトロは途中で風が恐ろしくなることもなく、イエス様のところまで歩くことができたかもしれません。しかしあえてまだ強い風が吹いている中を歩き始めました。そして風が恐ろしくなり、イエス様から目をそらしてしまう、そのようなときがあっても、イエス様は必ず手を伸ばしてしっかりと捕まえてくださるのです。このすべてを見ていた舟の上にいた弟子たちは、「まことにあなたは神の子です」と告白しました。強い風が吹き、その歩みを妨げるものがあったとしても、イエス様は決して見捨てることなく、すぐに手を伸ばして捕まえてくださるのです。

私たちの教会もこの小舟のようなものなのかもしれません。嵐の中で沈みそうになるとき、様々な困難に出会うこともしばしばあります。「はたしてこの舟、この教会にイエス様は一緒に乗っておられるのだろうか。わたしたちだけで必死になって前に進もうとしているのではないだろうか。」と不安になることもあります。しかしイエス様はそのような不安もすべて受け止め、わたしたちが信仰から離れそうになったときにも、呼び戻してくださいます。苦しんでいるとき「神様、本当にあなたはおられるのですか」と疑い迷っているとき、私たちの信仰を試されているのかもしれません。神様は、ときおり厳しい試練となるような特別な経験をさせられます。弟子たちにとっても5000人の給食という奇跡を目の当たりにしたとき、イエス様は絶対的な救い主であると確信したことでしょう。しかし激しい風に遭い、舟が沈んでしまうかもしれないという恐怖におかれたとき、その信仰は揺らいでしまいます。しかしその試練のあと、再び「まことにあなたは神の子です」と告白する、「主は私たちと共におられる」ということを確信することができるようになる。主イエスは強い風を受けて沈みそうになったペトロにすぐに手を差し伸べてしっかりと捕まえてくださいました。

栃木県・南河内に住んでいた伊澤洋さんが最後に残した絵は、一家団欒を描いた「家族」の絵でした。着物姿のお父さん、お母さん、妹、背広を着たお兄さん、みんなおしゃれをして勢ぞろいした幸せそうな一家団欒の様子です。しかしお兄さんは、「家は貧乏な農家だったからこんなぜいたくな暮らしではなかったんです。これは洋が描いた空想の絵なんですよ」と言われます。洋さんは「家族」に幸せになって欲しいという願いを込めて家族団欒の絵を描き、戦争に行ったのです。家族を思う心、家族への愛が絵の中に込められています。

「無言館」に展示されている画学生の絵は、「二度と戦争を起こさないこと」「命あるすべてのものを大切にして生きてゆくこと」無言のメッセージを伝えます。恋人や妻、家族、故郷に対する思い、これが絶筆になるかもしれないという思いと再び絵筆を持つ日が必ずくるという思いのなかで、自分の信じるものを見つめてまっすぐに生きる、そんな姿が感じられるからこそ、私は水の上を歩かれるイエス様の姿、まっすぐにイエス様を見つめて水の上に一歩を踏み出すペトロの姿が重なりました。

イエス様はどんなときでも私たちと共におられ、共に歩いてくださる方です。私たちが強い風、逆風にあおられ沈みそうになったときには、すぐに手を差し伸べて捕まえてくださる方です。主イエスから目を離さず、しっかりと前を向いて歩いてまいりましょう。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」主はいつも共にいてくださいます。

 

小児用nimoca フル活用

先週1日の午後から2日の教会学校の礼拝まで、久留米教会附属日善幼稚園卒園生と教会学校の子どもたち、小学生対象のお泊りキャンプが行われました。首都圏は駐車場料金が高額で、交通渋滞もあり、幼いときから、公共交通機関を利用することは当たり前です。私の勤務していた学校は横浜市内の私立小学校でしたので、殆どの児童は30分から1時間かけて電車やバスで通学していました。久留米の子どもたちの生活は、車社会で公共交通機関に乗る機会が少ないことを感じていたので、キャンプでは、公共交通機関を利用することも貴重な経験と思い計画しました。

小児用nimocaを利用すると、バスも電車も、どこでも1回50円で乗車できること、地下鉄は、小学生は1日乗り放題チケットがあり、1日100円で何度でも乗車できることが分かりました。久留米教会最寄りバス停から西鉄久留米駅までバス⇒西鉄久留米駅から天神大牟田線特急で薬院駅⇒薬院駅から地下鉄七隈線六本松駅まで、子どもの交通費は往復200円でした。(ちなみに大人は、往復2280円です)目的地である福岡市科学館での体験プログラムはもちろんのこと、小児用nimocaをピッとすること、100円1日乗り放題チケットを入れたり受け取ったりすることも初めての児童が多く、電車移動が楽しかったという声も聞こえてきました。土曜日の午後ということで、車内はかなり混雑していて、往復ともほとんど立ちっぱなしでしたが、子どもたちはドアのところに立ち、車窓の眺めを楽しんでいました。幼稚園の先生方、教会学校スタッフ、高校生ボランティアなど多くのスタッフが引率してくださったからできた経験でしたが、交通機関の夏休みサービスにも感謝です。

この夏休み、まだまだ酷暑が続きます。子どもたちにとって、お泊りキャンプが夏休みの楽しい思い出に加わったことを確信し、一回り成長する夏であって欲しいと願っています。教会は子どもたちにとっても安心して戻ってくることができる場所です

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