一粒のからし種 2025年10月4日 聖霊降臨後第17主日 説教要旨

今年はインフルエンザの流行が早いので、なるべく早く予防接種を受けようと考えていた矢先のこと、インフルエンザに罹患していることが分かり、思いがけなく5日間自宅療養となりました。月曜日から火曜日の夜までは38度以上の熱が続き、体中痛いですし、咳をすれば腹筋まで傷みます。神様からいただいたお休みというよりも試練の数日でした。誰かに移してしまっているのではないかという恐怖、3つの教会の皆さんは大丈夫だろうかと心配はつきません。そして自分はどこで感染したのだろうかと考えをめぐらす数日でした。
こんなとき、イエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と願った弟子たちの気持ちはとてもよくわかりました。インフルエンザであれば数日たてば熱は下がり、1週間もすれば回復することは分かっています。しかし熱で苦しむときには、文句も言いたくなる自分の弱さに絶望するのです。
今日の福音書日課は5節からですが、弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と願った背景には、その前の赦しについての教えがあったからです。まず他人を躓かせることがいかに重大な過ちであるか、それによってどんな不幸な運命がもたらされるかを示し、小さな者の1人を躓かせるよりも首にひき臼を懸けられて海に投げ込まれてしまう方がましだと言います。さらに兄弟が罪を犯したら、悔い改めれば赦してやりなさい。しかも1日に7回あなたに対して罪を犯しても7回、悔い改めるのであれば赦してやりなさいと言われました。1日7回赦すというのは、文字通り「7回」ではなく「何度でも」ということを意味し、永遠に赦し続けることを要求しています。
弟子たちは、他人を躓かせることへの警告や、悔い改めた者に対する無制限の赦しが要求され、それらの要求に応えるためには、もっと強固なる信仰が必要であると考え、「信仰を増してください」と求めたのです。これに対して「からし種一粒」ほどのごく小さな信仰さえあれば、「桑の木」のような大きな木を根こそぎにし、海の中に植えさせることもできると言います。「からし種」は、パレスチナ・シリア地方で栽培されていた種の中では最も小さい種で、成長すると3mほど伸び、中には5mぐらいまで伸びるものもある灌木です。つまり「からし種」に譬えられたということは、小さいちっぽけな信仰であっても大きく成長していくことも示されているのです。そして「桑の木」というのは、「いちじく桑の木」のことで、高さ10mほどの大木で深く根を下ろす木ですから簡単に根こそぎ抜くことも、その木を海の中に根付かせることも不可能です。信仰の大小、量的側面を問題にしている弟子たちに対して、イエス様は大小が問題なのではなく、信仰があるかないか、その信仰が本物であるかという質的側面を問題にしておられ、「からし種一粒」ほどの信仰であっても本物であれば、絶対不可能と思われることであっても、可能となることを示されたのです。
7節以下は「奉仕」について語られます。「畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」とありますから、耕作もしくは牧羊に従事する僕がいて、その僕が食事の世話もしているということです。この僕が畑仕事から帰ってきたら、まず主人の食事の用意をするように指示をするではないかと問います。そのような当たり前のことをしても主人は僕に感謝することはない。自分に命じられたことを果たしたなら「わたしどもは取るに取りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。自分の為したことを誇りとしたり、評価を受けることを期待したり、ましてや報酬を要求するのではなく、「与えられた任務を遂行した」「なすべきことをなした」だけであるという謙虚な姿勢が求められました。
私たちの日常を振り返ってみますと、自分では善かれと思って言った言葉であっても他人を傷つけてしまうことが多くあり、配慮したつもりであっても、その配慮が相手を傷つけ、相手のためを思って善意からなされた行為であっても結果的に相手を躓かせてしまうこともあります。人に接するときには、細心の注意を払わなければならないということです。
悔い改めることによって罪を赦された相手が、その後も繰り返し罪を犯し続けるような場合、その相手を赦し続けることは人間には可能なのでしょうか。私たちの身近には信じられないような事件が毎日のように報道されます。「襲いやすそうな人を探して、目的もなく歩いていた」「両手に荷物を持った女性を見つけ、この人にしようと思った」それだけの理由で、全く面識もない女性が突然襲われ、複数回刺されて命を落とされました。そのような事件が起きると、犯人を赦すことなどできません。
私たちは、人を躓かせることも多く、そして人を赦すこともできないことが多い、それが現実であり、それが人間の姿です。奉仕についても、私たちはつねに報酬を求め、他者からの評価を得ることを期待し、「取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と謙虚な姿勢を持つことは難しいのです。だからこそ、私たちは今、「からし種一粒」ほどの信仰でも与えられることを願い祈るしかないのです。
7月から9月の聖書日課のあとがきに、屼ノ下照光牧師がネット上で知ったオノヨーコさんのことを記しておられました。1980年、夫ジョン・レノンが、自宅前で銃撃され、彼女は深い悲しみに見舞われました。さらに追い打ちをかけるように、多くの人たちが、誹謗中傷の言葉を投げかけました。精神的にぎりぎりまで追い込まれた時、彼女が始めたことは、「祝福」でした。「ブレス ユー ジャック、ブレス ユー ノーマン、ブレス ユー フレッド・・・」おかしなもので、口に出てくるのは、嫌がらせや誹謗中傷をしている人たちの名前ばかりでした。嫌いな人の幸せを祈ることは、自分を祝うことだったのです。人のために祈っていたつもりが、そうすることで、いつのまにか自分の中にある恐怖や怒りが追い払われていったのです」と彼女は語っています。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と主イエスは教えてくださいました。オノヨーコさんの言葉は、神様の恵みによって、怒りが祝福に変わり、恐怖や怒りが取り払われていった、そこに人間の力を超えた神の大きな働きを感じます。からし種一粒ほどであっても、確かな信仰が与えられること、その恵みを謙虚に受け止めることができる者でありたいと思うのです。

福岡ソフトバンクホークス、優勝おめでとうございます!
福岡の皆さんにとって、ソフトバンクのリーグ二連覇は本当に大きな喜びだと思います。特に今年は、開幕当初から主力選手の故障も多く、4月は最下位という苦しいスタートでしたから、昨年のリーグ優勝とは、また違った思いでこの優勝を喜んでおられることと思います。リーグ優勝を成し遂げた翌日の朝日新聞「ひと」欄に、メンタルパフォーマンスコーチ伴元裕さんが紹介されていました。小久保監督らの判断で、最下位だった5月3日からベンチ入りし、選手の「心」に拠りそってきたメンタルコーチです。伴さんは、選手の悩みを聞きながら、一緒に考える。目標に対して仮説をつくり、検証していく。道筋が見えると、迷いがなくなる。ベンチでは派手に喜ぶ。「どの選手も可能性は無限大、その力を少しでも引き上げられたなら、こんなにうれしいことはない」と語ります。主力選手を故障で欠くなか、「3軍育ち」の牧原大成内野手をはじめ、若手選手が次々と活躍し始め、交流戦で優勝してからは安定した強さを発揮していたように思います。すべての選手の可能性を信じ、その力を引き上げようとするメンタルコーチの支えは大きかったことでしょう。
日々幼稚園の子どもたちと接する中で、子どもたちの持つ可能性が無限大であることを信じることができているだろうか、その力を引き上げることができているだろうか、と考えさせられました。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(マルコ10:15)」イエス様は、子どもたちをかけがえのない一人として信じ、愛されていたのに・・・

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