十字架の愛 2025年9月27日 聖霊降臨後第16主日 説教要旨

2025年9月27日 聖霊降臨後第16主日 説教要旨

「十字架の愛」

今日の福音書日課は、二つの主題が語られます。第一は、金持ちは地上で贅沢に暮らし、享楽をほしいままにしていると、死後の世界では苦しみを受ける。貧しい者は、この世で苦しんでいても、後の世では慰められるという教えです。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣と柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。当時金持ちや王侯貴族の着る物は、紫の衣と柔らかい亜麻布と決まっていました。「毎日ぜいたくに暮らしていた」とありますが、倫理的姿勢については何も記されておらず全く問題にはされていません。
続いてラザロの紹介がされています。金持ちの門前に「横たわり」とありますから、おそらく重い病気を抱え、さらに皮膚病もわずらい。無一文で、飢餓状態にありました。しかも犬がやってきても追い払う力もなく、犬になめられるにまかせていました。ラザロについても特に倫理的姿勢は記されていません。ですからラザロの信心深さによって、救われたということではありません。
二人の境遇は死後、逆転します。「貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれ」ます。一方金持ちは死んで葬られ、「陰府」に送られます。「陰府」とは、人の魂が肉体の死後に滞在する場所で、苦しみの場所と安心できる場所の二つの領域にわかれており、両者は離れていて行き来をすることはできません。金持ちのいるところとラザロのいるところとは、離れていますが、それぞれの状況を見極めることができる位置関係にありました。金持ちは、陰府における苦しみの中で、アブラハムのすぐそばで慰めを得ているラザロの姿を見ることができるのです。金持ちはアブラハムに、炎の中でもだえ苦しみ、乾ききった舌を水で冷やして欲しいと懇願します。金持ちは、生前、自分の家の門の前に横たわっていたラザロに注意を向けなかったこと、ラザロに対して、自分は何の施しもしなかったことを悔いているのかもしれません。しかしもはや神によって定められた来世における境遇の逆転は、変わることはありません。地上で「良いもの」をもらっていた金持ちは、陰府で苦しみ、地上で「悪いもの」をもらっていたラザロは、慰めを受けるのです。
テモテへの手紙Ⅰでパウロは、「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(Ⅰテモテ6:17)」と教えます。イエス様も「金持ちが天の国に入るのは難しい。(マタイ19:23)」と言われました。自分自身の高慢さに気づき、地上の不確かな富に執着することなく、神に望みを置くようにと言われました。
この譬え話の第二の主題は、「モーセと預言者の言葉に耳を傾けなければ、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、言うことは聞き入れられない」ということです。金持ちは、陰府でのあまりの苦しみから、せめて地上にいる5人の兄弟がこんな苦しい場所に来ることがないように、ラザロを遣わして、彼らに悔い改めるように言い聞かせて欲しいと願います。その願いに対してアブラハムは「お前の兄弟たちはモーセと預言者に耳を傾けるがよい」と言います。「モーセと預言者」というのは、旧約に記されていること、律法に集約されます。律法に聞き従うようにと言います。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「キリストは律法の目標であります、信じる者に義をもたらすために(ローマ10:4)」と言っています。さらに「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ローマ13:8~10)」と言います。最も重要な律法は、隣人愛、キリストの愛であると言います。律法とは守ることができない人を見下すものではありません。イエス様は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」と教えられました。自分を愛するように隣人を愛すること、神様が私たちを愛してくださったように、自分を愛すること、そして同じように隣人を愛すること、それが律法と預言者である。律法に生きることであると教えてくださいました。
その愛を完璧に生きてくださり、私たちに示して下さったのがイエス様です。イエス様は神様への愛、そして神様からの愛を完璧に生きてくださった方です。イエス様は、罪人である私たちの罪を赦し、そして救いを与えてくださるために、十字架の死によって完璧な愛を示して下さいました。私たちはそれでも自分自身のことを顧みることをせず、罪を犯してしまう弱い者です。他者を批判し、他者よりも自分は優れている者と思い込んでしまいます。しかし私たちは、十字架の愛に支えられなければ生きていくことはできない、十字架の愛によって、生かされているのです。私たちが心を向けるべきは、十字架の愛によって生かされていること、今を生きる神様が、キリストの十字架によって、私たちを神の国へと招いてくださっていることなのです。
神様は今日も私たちに互いに愛せよと語りかけてくださっています。私たちは主イエスの愛、十字架の愛によらなければ、生きていくことはできない。十字架の愛に心を向けて主の愛に生かされて今日もここから遣わされてまいりましょう。

彼岸花(曼殊沙華)から学ぶこと・・・
二日市教会の庭に一斉に彼岸花が咲きました。ササの間から芽を出し、赤と白の花を咲かせています。二日市から久留米に向かう途中の田んぼの片隅にも、穂をなびかせている稲の中の真っ赤な花が目に留まります。
小学校4年生の国語文学教材として掲載されている、新見南吉の『ごんぎつね』では彼岸花は物語の中で重要な意味のもつ花として描かれます。
「墓地には、彼岸花が、赤いきれのように咲き続けていました。と、村の方から、カーン、カーンと、鐘がなってきました。葬式の出る合図です。やがて、白い着物を着た葬列の者たちがやってくるのがちらちら見え始めました。話し声も近くなりました。葬列は墓地へ入って行きました。人々が通った後には彼岸花が踏み折られていました。」
彼岸花は、「あの世とこの世が近くなる時期」に咲く花であり、墓地や死と関連が深い花です。いたずら好きのごんは、兵十が病気の母のために捕まえていたウナギを盗み川に投げ込んでしまいました。ごんは、罪滅ぼしとして、こっそりと兵十の家に栗や松茸を届けます。しかしごんの行為と
は知らない兵十は、ごんの姿を見た時に、火縄銃で打ち殺してしまいます。「踏み折られた彼岸花」は、取り返しのつかない悲劇へと発展することの象徴として、物語の悲劇性を強調し、物語の進行を促す重要なモチーフとなります。
彼岸花は、咲く時期、場所から不吉な花とされ、部屋には飾ってはいけないとまで言われています。しかし花はその場所で生きるよりほかなく、与えられた場所で、精一杯咲いています。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい(マタイ6:28)」と主イエスは、野の花を信仰の規範として示されました。野の花は、咲く時期も咲く場所も自分で選ぶことはできません。しかし無力であるからこそ、神様に全てを委ねて今を一所懸命に生きています。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった(29節)」すべてを主に委ねて生きるとき、私たちを悩みや苦しみから解放され、神様はすべて必要なものを必要な形で与えてくださるのです。

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