大きな事に忠実に生きるために 2025年9月20日 聖霊降臨後第15主日 説教要旨

今日の福音書日課には「不正な管理人の譬え」というタイトルが付けられています。「不正」という言葉がついているというだけで、聖書にこんな箇所があってよいのか、イエス様はこの譬えを通して何を語ろうとしているのか、不正をすることを勧めているのだろうかと疑念を抱きます。
この譬え話は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して3つ譬えを語られた後、イエス様は、今度は弟子たちに語り始めたと記されています。しかし、おそらくファリサイ派の人々もその場に留まり聴いていたということが考えられます。ファリサイ派の人々は、「自分たちは正しい者であって、神に近いから義人であり、悔い改める必要はない」と思っているものの、イエス様は、それは間違いであることを、譬えを通して語られます。一方弟子たちも「自分たちこそ神に近い者だ」と安心し、自分たちこそ選ばれた神の家の中にいる者と自負しています。しかしその考えこそが家の外にいることなのだとイエス様は言われているように思います。ファリサイ派の人々、弟子たちに対して、イエス様はこの譬え話を通して何を語ろうとされているのでしょうか。
主人公である「管理人」は、ある金持ちの主人に雇われ、おそらく主人は、仕事で不在にすることが多く、土地の管理と活用、財産管理をすべて任せていました。財産管理人は、主人の財産管理を全て任されているのですから、非常な権力を持っていました。それ故、負債を抱えている者たちは、身近で接する機会の多い管理人に対して不満を抱き、陰口を言う者、告げ口をする者が多くいました。
ここで告げ口された内容は、主人の財産を無駄遣いしているということでした。主人は、管理人に対する告げ口を聞き、「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」かなり強い口調で追及します。これは、解雇通告です。管理人はもはや弁解や反論をしても無駄だと考えます。管理人は、日雇い労働者として働く人々と比べたらかなり贅沢な暮らしをしていました。「解雇」は単に職を失うだけではなく、これまでの贅沢な生活を失うことになるのですから、何とかしなければなりません。土を掘る力、肉体労働など自分にはとてもできない、まして物乞いをすることは、屈辱的で耐え難いものです。こんなことをするぐらいなら死んだ方がマシだと考え、自分を家に迎え入れてくれるような友人をつくり出す方法を考えます。
主人に借りのある者を一人ずつ別々に呼び出して証文を改ざんし、負債を削減することにします。実に迅速に、しかも負債者たちが協議することがないように一人ずつ別々に呼び出します。最初の負債者は、「オリーブ油100バトス」を抱えている者です。バトスとは、液体の容量を表す単位で、1バトスは約36ℓに相当します。次の負債者は「小麦100コロス」を抱えています。コロスとは、液体の容量を表す単位で、1コロスは約360ℓに相当します。どちらも決して少量ではなく、かなりの負債額があったということです。管理人は、証文を書き換えさせます。油100バトスを50バトスに、つまり50%の負債削減です。そして小麦100コロスを80コロスに、つまり20%の負債削減です。ユダヤ人は、同胞であるユダヤ人に対する利子は律法で禁じられていました。そこで金持ちは別の方法で利子をつける方法として、最初から元金に利子を含めた額を負債者への請求額として帳簿に記します。帳簿上の利子率は、金銭では約25%、品物では約50%です。利子を含めた額を負債者への請求額として記しているのですから、50%の負債削減は主人にとっては損害にはなりません。管理人にとっても、自腹を切ったわけでもありません。負債者にとっては、負債額を削減してもらったのですから、有難いことで、主人にも、管理人にも感謝し忠誠を誓うことになります。
主人は、この管理人の抜け目のないやり方を称賛します。ここで主人が負債者たちに管理人が不正をしたことを説明し、負債削減は無効であると知らせてしまったのでは、負債者の喜びは失望と怒りに変わり、主人との関係は悪化します。管理人の巧妙なやり方を受け入れ、解雇宣告を取り下げれば、寛大である主人は人々からも賞賛を受け、管理人も主人にますます忠実に仕えるようになります。主人は利子分の損失をしても、大きな損失にはなりませんから、不正を暴くよりも人々からの賞賛と信頼を得ることを選択するわけです。管理人の賢い策略は見事成功したといえるでしょう。
この譬え話では財産を失い、職を失うことよりも、迎え入れてもらえるような「家」「永遠の住まい」があれば良いということ、「永遠の住まい」を得るために賢く振る舞うことが示されます。
「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。」大きな事とは、重要なこと、大切なことという意味です。管理人は、抜け目のない賢いやり方で、自分の立場を守ることができ、主人から称賛を得ることもできました。負債者は負債が削減され喜んだことでしょう。管理人の賢いやり方はこの世の富を巧みに操作した不正です。しかし不正にまみれた富であっても、それは小さな事です。大きな事、大切なことは、永遠の住まいに迎え入れられるために努力をしたということです。小さな事に忠実であることが、大きな事に忠実であることにつながったのです。
最後にイエス様は「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われます。「この世の富を愛して生きるか、神を愛して生きるか」というどちらかの選択です。しかしこれはこの世の富をすべて否定することではありません。この世の富のことは大きな事、重要なことではなく、小さな事だと言うことです。譬え話を通してイエス様が教えられたことは、小さな事、この世の富のことに忠実でなければ、大きな事、神に仕えることもできないということです。私たちはすでに神様によって救われ、永遠の住まいに迎え入れられることが約束されていると思いこみ、この世で生きることを軽んじているのではないかという問いかけです。この世の富について忠実に生きること、小さな事に忠実に生きることが、神の愛に応えること、神様に従うこと、大きな事に忠実に生きることになると言われているのです。この世の事に忠実に生きることを通して、神に仕え、人に仕える生き方を選びとる決断をしていくこと、そのことによって、永遠の住まいに迎え入れていただけるのです。

落雷体験が人生を変える!
水曜日の夕方、5時近くから雷が鳴り始めたので、急いで幼稚園を出ました。しかし西鉄久留米駅に着いたとたん、雨が降り始め、小郡を通過した辺りで停電のために電車は止まり、しばらく薄暗い車内で待機することになりました。すぐに電気は復旧し、15分遅れで西鉄二日市駅に着いたときには、雷は鳴り響き、激しい雨で、駅から自転車で帰ることはできなくなりました。
ルターは、厳格な父に育てられました。父は我が子には、社会に出て一番役に立つ法律の勉強をして幸せになって欲しいと願っていました。ルターは、父の期待に応えて18歳で名門エルフルト大学に入学、教養学部卒業後、法律の勉強を始めます。1505年7月2日、ルターは、一時マンスフェルトの親元に帰省した後、エルフルト大学にもどる途中、シュトッテルンハイム村の近郊の野原で突然、落雷にあい地面になぎ倒されてしまいます。彼は思わず神に命乞いをし、「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります!」と叫びました。雷に打たれたルターは、聖アンナに修道士になることを誓ってしまいました。落雷が去ってしまえば、修道誓願などすぐ忘れてしまっても良いのですが、ルターは、神に誓ったその事実を取り消すことができず、落雷の日から2週間後、大学をやめて、エルフルトの町にあったアウグスティヌス修道会に入ってしまいました。この修道院は、大変戒律に厳しい、また学問的な修道院でした。突然の大学退学と修道誓願に友人たちは驚き、父親は激怒しました。しかし、ルターは7月17日、修道院の門の中に入ってしまったのです。落雷体験がルターの人生を180度変えてしまったのです。鋭く光る稲光を見、雷鳴を聞き、ルターの落雷体験を思いました。

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