第一日課 使徒言行録2章14a節、22~32節
第二日課 ペトロの手紙Ⅰ1章3~9節
福音書 ヨハネによる福音書20章19~31節
「見ないで信じる信仰」
今日の福音書日課の主人公は、トマスです。トマスというと、「疑い深いトマス」として知られていますが、トマスだけが、「見ないと信じない弟子」だったのしょうか。ヨハネ福音書によると、安息日が明けて、朝早く、まだ暗いうちに墓に走って行ったのは、マグダラのマリアでした。墓の前の石が取りのけてあるのを見て、急いで弟子たちのところへ報告に走ります。そしてペトロともう一人の弟子は、マリアからの報告を受け、墓の中に入り、その姿がないことを見て、マリアの言葉を信じたのです。その後、マグダラのマリアは復活のイエスに出会い、弟子たちの所に行き、「わたしは主を見ました」と告げました。しかし彼らはまだ、主イエスが復活されたことを信じることはできないでいます。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて家の戸をすべて鍵をかけてじっとしていました。そこに復活のイエス様が現れ「あなたがたに平和があるように」と言われ、そして手と脇腹の傷を示され、主イエスの復活を信じることができたのです。彼らも主イエスの姿、手と脇腹の傷を見て初めて信じたということが分かります。
なぜこのとき、トマスはいなかったのでしょうか。ヨハネ福音書11章、マリアとマルタの兄弟であるラザロの死が報告され、再びイエス様がユダヤに戻ろうとされた際、弟子たちはイエス様を思いとどまらせようとするのに対し、トマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と決死の覚悟を語り、弟子たちを奮い立たせる忠誠心のある人物であることが分かります。
また同じヨハネ福音書14章では、イエス様が神に至る道を示されたときには、「主よ、どこへ行かれるのか分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょう」と分からないことは、戸惑うことなくすぐに尋ねる、純粋な真っ直ぐな人物であったことが分かります。
イエス様が捕らえられたあと、弟子たちはみな逃げてしまいます。おそらくトマスも逃げてしまったのでしょう。どこまでも主イエスについていくと誓った自分が、逃げ出してしまった。このことに自己嫌悪を抱き、とても他の弟子たちと一緒にはいられないという思いだったのかもしれません。また他の弟子たちと一緒にいたのでは、ユダヤ人に捕らえられてしまう危険性があると思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分の行くべき道は自分で判断しようと考えたのでしょう。しかし他の弟子たちが「私たちは主と見た」と言っているのを聞き、そんなことがあるはずがないという思いと、どうして自分は他の弟子たちと一緒にいなかったのかと後悔を感じて、「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れなければ、わたしは決して信じない」と言ってしまうのです。
8日の後、再び弟子たちが集まっているところに復活のイエス様がその姿を現します。今度はトマスも一緒にいました。なぜ一緒にいたのか、それは、自分も復活の主に会いたいという思いが強かったからであり、自分の目で確かめて主を信じたいという思いがあったからでしょう。主イエスはこのトマスの気持ちをすべて理解してくださっていました。「あなたの指をここにあてて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」と言われるのです。手の釘跡と脇腹の傷を見なければ信じないと言ったことを責められたのではありません。トマスの心情をすべてご存知なのです。
復活したイエス様は、マグダラのマリアの前に現れたときには、「私に触れてはいけない。」と言われたのに対して、トマスに対しては「あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。」と言われました。正反対の対応をなさいます。イエス様は、一人ひとりに対して違った形で、人格的なふれあいをなさる方だということが分かります。復活のイエス様に出会ったときは、誰でも抱き合って再会の喜びを体で感じたいと思うものです。しかしマリアに対しては「触れてはいけない。」と距離をとられます。過去の関係に戻るのではなく、新しい関係がここから始まることを伝えようとされたのではないかと思うのです。そしてトマスに対しては、触れることによって、「信じない者」から「信じる者」に代わり、新しい関係性が始まることを促したのではないでしょうか。
イタリア・バロックの巨匠、カラヴァッジョが1601年~1602年頃製作した絵画はこの物語の劇的瞬間をとらえた作品です。聖書にはトマスが実際にキリストの傷に手を入れたということは記されていません。しかしこの作品では、主イエスが、トマスの手を取って人差し指を傷に入れさせているように描かれています。そして他に二人の弟子もキリストの脇腹の傷口に注目しています。「信じない者」が「信じる者」になる瞬間をとらえています。ユダヤ人に襲われるかもしれないという恐怖から、主の復活を信じる喜びへと変わっていった瞬間です。

復活という劇的な出来事は、なつかしい過去がそのままよみがえって思い出される、もう一回昔の関係に戻るということではありません。復活とは、過去と断絶して、新しい方向へと向くことです。過去に向いていた私たちの目が、大きく未来へと方向転換させられることです。古いものが新しくされること、古い関係性から新しい関係性が始まること、将来に向けられた新しい命の始まりを意味しています。今日の終わりの歌『球根の中には』の讃美歌3節にあるように「いのちの終わりは、命の始め、おそれは信仰に、死は復活に」とあるように、新しい命を与えられ、新しい命を生きるものにされる、それが復活です。
復活の主イエスはマリアとトマス、全く異なる形で、その姿をお示しになりました。それぞれの思いをしっかりと理解し、相応しい形で示されました。ペトロの手紙Ⅰ1章8節には、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」と記されています。私たちは実際にキリストを見たこと、出会ったことはありません。しかし聖書に語られている復活の証言を、私のこととして追体験し、現実のものとし、希望の源として、それぞれに相応しい形で導かれて信じるものとされています。主が復活した日を記念として教会に集う私たちは、主イエスの十字架と復活によって、罪赦され、新しい命を与えられ、聖霊を豊かに受けて、ここからまたこの世へと送り出されて行きます。主日にここに集うたびごとに、私たちは復活の喜びを追体験して生かされていく、「信じない者」から「信じる者」へ、「おそれを信仰」へと変えられていくということができます。イエス様は、ひとりひとりに相応しい形で、復活の姿を現され、そして信じるものへと変え、新しい命を与えてくださっているのです。復活の主によって生かされていることに感謝し、ここから召し出されてまいりましょう。
唐津城は豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が慶長7年(1602)年から7か年の歳月を費やして完成しました。その城主は、寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏が任ぜられ、明治10年に本丸跡は舞鶴公園となり、現在の城郭は天主台跡に慶長様式を取り入れ、文化観光施設として昭和41年10月に完成したそうです。初代藩主、寺沢志摩守広高は、塩害防止と新田開発のために100万本の黒松を植林し、現在は日本三大松原として全長4.5km、幅500mに広がる「虹の松原」は、国の特別名勝に指定されています。国の三大松原というのは、静岡県の「三保の松原」、福井県の「気比の松原」そして、この佐賀県の「虹の松原」です。岩手県陸前高田市の「高田松原」は、約350年前から続く約7万本の松林でしたが、2011年の東日本大震災の津波でほぼ全滅しました。唯一「奇跡の一本松」は、後に枯死。保存処理され、復興のモニュメントとして立っています。私は震災後、この松林の復興のために、松の苗の植樹、また保護のための「よしず」を作るボランティアに参加したことがあります。「虹の松原」の中を歩きながら、津波で全滅した高田松原の情景を思い出し、また震災から15年を経て、松原の再生は、50年後の完成再生を目指して、苗の育成や植樹が続けられていますが、今はどこまで育っているのか想像していました。