第一日課 エレミヤ書31章1~6節
第二日課 使徒言行録10章23~43節
福音書 マタイによる福音書28章1~10節
「復活の喜び」
イースターおめでとうございます。主の復活の喜びの朝です。
私は、30日から三日間、春の全国ティ―ンズキャンプに福岡地区からの参加者の引率のために参加しました。「救いって思ったよりリアルかも」というテーマに基づき、主題聖句として、ヨハネ福音書3章17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」が選ばれていました。リーダーが演じるスタンツによって聖書の物語を学び、その後グループごとに分かち合いをするプログラムが6回に分けて行われました。分かち合いの中では、十字架について知っていることから始まり、自分を優先して、行動してしまったこと、自分がやったことを人のせいにしてしまったこと、困っている人を見て、見て見ぬふりをしてしまったこと、人に手を差し伸べられなかったことなど、自分のこれまでの罪を意識する出来事を話し合います。2日目の夜には、主イエスの十字架の道行きをたどり、5つのステーションが用意され、体験をしました。十字架の釘打ちをする、酸いぶどう酒を飲む、十字架を担いで歩く、脇腹を付かれる、いばらの冠を被るという5つの体験でした。それぞれのステーションにグループごとにスタッフから説明を聞きます。十字架の釘打ちの体験は、十字の形に置かれた角材に五寸釘を打ち込んでいきます。子どもたちは、その角材の上に主イエスの身体が横たわっている姿を想像しながら打ち込んでいきます。暗い外でLEDの小さなロウソクキャンドルの中、釘をうつ音がおそろしいほどにリアルに響きました。
酸いぶどう酒は、酸化したぶどう酒ではなく、ワインビネガーが用意されていたこともあり、のどにつきささるような強烈な酸っぱさに驚かされている様子でした。
十字架をかつぐ体験では、もちろん、実際の十字架よりは小さなものではありましたが、十字架の角が肩に食い込み、その痛み、重さを感じながらひとりずつ10mほどの距離を歩きます。実際は40㎏~50kgほどの重さだったこと、主イエスは、鞭うたれ、いばらの冠をかぶせられ、ゴルゴダに向かう坂道を多くの群衆から罵倒されながら歩いたこと、その場面を想像しながら歩きます。
槍でさされる場面では、紙で作った槍ですが、イエス様の痛みを想像し感じ取ることができました。
いばらの冠は触るだけでも痛く、頭に乗せるのも恐ろしく感じられました。主イエスは額に食い込むように入れられたこと、痛みを感じつつ、なぜいばらだったのかも合わせて考えました。
この5つの体験は、主イエスはこのような苦しみを受けられたということをリアルに受け止めるに十分すぎる体験でした。すべての体験を終えたときには、小さなLEDのろうそくの灯を見つめながら、言葉も出ない沈黙の時間が流れました。その沈黙の時間は、主の十字架の苦しみを私たちのために受けられた苦しみであるとリアルに捉えることができた時間だったからです。
最終日には、私たちの罪のために十字架の苦しみを受けられた主イエスの愛を感じ、ひとりひとり神から愛されている存在であることを実感し十字架がリアルに捉えられるようになりました。主題聖句でもある「主は世を裁くためではなく、世が救われるためにこの世に遣わされた」という、主の救いの御業を実感し、そして今日このイースター、復活の喜びへとつながってくれることを信じて帰途につきました。
本日は、マタイ福音書の復活物語のみことばを聞きました。主イエスの埋葬の後、墓の入り口に大きな石が転がされた後も、墓の前から立ち去ることができない人がいました。マグダラのマリアともう一人のマリアです。墓の中に葬られているのは、すでに息絶えた主イエスの亡骸です。わかっていても立ち去ることができない、愛する人を失った者の喪失感、悲壮感が感じられます。この二人は、安息日が終わり、日曜日の夜明けを待ちかねたようにして、真っ先に主イエスの墓へとんでいきます。
彼女たちが墓に到着すると、突然大きな地震がおき、不思議なことが起こります。「主の天使が天から降って近寄り、石を転がして、その上に座った」のです。二人のマリアはあまりに突然の出来事で、目を開けていることもできなかったことでしょう。見張りの番兵は、恐ろしさのあまり死人のように、真っ青になり、身体が固まり、逃げ出すこともできなくなってしまいます。天使は二人のマリアに語ります。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているだろうが、あの方は、ここにはおられない」彼女たちは確かに主イエスを見るためにここにやってきました。彼女たちが見に来たのは亡骸となったイエスさまです。彼女たちは、もう一度墓の前で思いっきり泣きたいと思ったのかもしれません。あるいは香料を主イエスのご遺体に塗るためだったのかもしれません。しかしそこにはすでに主イエスの遺体はありません。「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」自分たちが期待していたもの、当然その場にあるべきものがないということは、失望させ、悲しみを感じることです。しかし空っぽになった墓は、喜ばしき不在です。「女たちは恐れながらも、大喜びで急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった」とあります。彼女たちは「恐れながらも」とあるように、あるべきものがない、自分たちが見にきたものがそこに存在しないという出来事は恐れつつも喜びに変わるのです。彼女たちの恐れは喜びに変わっていくのです。そして弟子たちにその喜びの知らせを伝えに夢中で走って行く途中、彼女たちは復活のイエスに出会います。十字架にかかり、自分たちの目の前で息を引きとられ、墓に葬られたイエス様が、自分たちの前にその姿を再び現され「おはよう」と声をかけてくださったのです。彼女たちの恐れは、完全に大きな喜びへと変わり、弟子たちにこの喜びの知らせを届けるために走っていきました。
私たちもお墓参りをします。それは亡くなった方の供養のためであり、また亡くなった方に報告をするためであり、亡くなった方との思い出、共に過ごした時間を懐かしむためでもあるでしょう。しかしそれだけではないのです。その方のご遺骨は墓の中に収められていたとしても、そこにいるわけではなく、亡くなられた方の霊は、既に主の御許におられることを私たちは信じます。地上での別れ、死は突然にやってきて、誰しも避けることはできません。死の前で私たちは無力です。その死は長寿を全うし亡くなられる方もいれば、突然の事故や病によって死が予期せぬとき訪れることもあります。どのような形であっても死は誰も操作することができないことです。しかし地上での別れ、死は私たちにとって、決定的な最後、別れではありません。イエス様の復活の出来事は私たちにそのことを示しています。神様の力は私たちと死んだものを隔てている力、私たちを苦しみに閉じ込め悲しみから立ち上がれなくさせる力を超えて、働かれています。空っぽになった墓での出来事は大きな喜びになるのです。神様の大いなる力が働かれていることを信じ、ただ復活の主にすべてを委ねて、死の恐怖からも解放されていることを信じ、今日、この復活の喜びを共に分かち合いましょう。空っぽの墓それは、喜びの証しなのです。
春のティーンズキャンプ in 高尾わくわくビレッジ
30日~1日まで2泊3日、春の全国ティ―ンズキャンプの福岡地区からの引率のため、高尾わくわくビレッジに行ってきました。東京は桜が満開でした。かつて長女は、ティ―ンズキャンプで全国の友達に年に一度会えることをとても楽しみにしていました。長女はスタッフとしても何回か参加していましたが、まさか私がスタッフとして参加することになるとは思っていませんでした。「春キャン初体験」でしたが、久留米教会から一人参加者が与えられたことも感謝です。
今回のテーマは「救いって思っていたよりリアルかも」というテーマで、主題聖句は「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3:17)」でした。全国から集まったティ―ンズが、罪の問題、イエス様の十字架の意味、そして今私たちが主の十字架によって救われ、罪赦された者として生かされていることを、膝を突き合わせて語り合いました。コロナを経験したティーンズが、自分の考えていること、思っていることをどこまで表現することができるのか、そして仲間のティーンズの言葉を受けとめることができるのか心配していましたが、私が想像していた以上に、ティーンズは、罪について考え、主の十字架を自分のこととして受け止めることができ、教会の将来も決して暗くないぞ!と感じることができました。主はティーンズの悩み、苦しみを受け取ってくださっている。主はいつでも共にいてくださるということを心の支えに、キャンプを終えて日常にもどっていく若者にエールを送りたいと思います。
主の平和