第一日課 出エジプト記17章1~7節
第二日課 ローマの信徒への手紙5章1~11節
福音書 ヨハネによる福音書4章5~42節
イエス様の一行は、ユダヤからガリラヤへ行かれる途中サマリアを通ります。そしてシカルという町のはずれにある井戸にたどり着きます。正午ごろのこと、弟子たちは食べ物を買うために町に行っていてイエス様だけが疲れて井戸の側に座っておられました。明け方からずっと歩き続けておられたのでしょう。イエス様は水を汲みに来たサマリアの女に「水を飲ませてください」と言われました。サマリアの女はさぞ驚いたことでしょう。
女性が驚いた理由は二つあります。第一に、ユダヤ人とサマリア人は、交際していなかったというよりも、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、嫌っていたからです。第二にイエス様は男性であり、女性に声をかけるということは常識ではあり得ないことでした。当時の風習として、公の場で男性が女性に声をかけることはもとより、挨拶をすることすら禁じられていました。
女性にはそれだけではなく、誰にも会いたくないという思いがありました。だから昼の最も暑い時間に水を汲みにきたのです。水汲みは本来、朝の早い時間か夕方の涼しい時間に行くものとされていました。女性たちはおもに家の中で仕事をしていましたから、井戸は貴重な社交の場でした。井戸に水汲みに来て、井戸の周りに集まって世間話や噂話などたわいないおしゃべりをして息抜きをしていたのでしょう。しかしこの女性はそのような交わりを避けて、誰もいない昼の暑い時間に井戸にいきました。この女性には5回の結婚歴があり、今連れ添っている人も正式な夫ではありません。女性は井戸の集まる女性たちからも噂の的とされ、差別的な目で見られていました。誰にも声をかけて欲しくないという思いだったのでしょう。
このような女性にイエス様は「水を飲ませてください」と声をかけてこられたのです。民族的差別、性的差別、そして個人的差別を受けていた女性に対して男性であるイエス様が声をかけてこられたのですから驚くのは当然です。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」素直な驚きを表しています。イエス様は当時の常識、風習などにとらわれることなく、とにかく長旅で疲れ、空腹でのどが渇き、何はともあれ一杯の水を欲しておられるのです。
「渇く」十字架上の主イエスの最後の言葉を思い起こします。「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出した。イエスは、このぶどう酒を受け取ると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引きとられた」のどが渇いているときに飲まされる酸いぶどう酒は、苦痛を長引かせる目的のために使用されたとも考えられています。苦しみを和らげるためではなく、より苦しめるための飲み物、これがイエス様にとって最後に口にされた飲み物となりました。主イエスは、実に惨めな姿で息を引きとることによって、神様の計画は「成し遂げられた」のです。
「永遠の命に至る水」をお与えになることができる主イエスが、サマリアの女性に向かって「水を飲ませてください」と懇願し、人々から差別され、悪い噂をされて、自分を卑下している女性の下に立たれました。まさに十字架上の主イエスの姿と重なるように思います。主イエスは、人を救うために十字架上で最も惨めな姿をさらされ、息を引きとられました。主イエスは、人々から蔑まれているこのサマリアの女性を救うために、彼女の前に座り、水を懇願されたのです。
サマリアの女性は、イエス様との対話のあと、この方こそメシアかもしれないと確信します。「女は水がめをそこに置いて町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」イエス様によって救われたサマリアの女性は、井戸に水を汲みに来たことを忘れ、水がめをそこに置いて町に行き、人々に伝えました。女性はいてもたってもいられなくなったのです。イエス様との出会いがこの女性を変え、人々の中に出て行ってこのことを伝えずにはいられないと言う気持ちにさせました。イエス様との出会いによって人生を変えられた女性の証言によって、多くのサマリア人がイエス様を信じる者となりました。3節、4節に「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかしサマリアを通らねばならなかった。」とあります。通常ユダヤ人は、ユダヤからガリラヤに向かうときには、サマリアを通らないようにわざと遠回りをしていったといいます。しかしイエス様一行はサマリアを通られた、つまりそれはこのサマリアの女性に会うためであったということなのかもしれません。またサマリアとユダヤの対立を克服するため、サマリアの町全体に福音を知らせるためだったということもできるでしょう。
「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」 私たちは、水による洗礼によって新しく生まれ、永遠の命を生きる者とされます。いうまでもなく、この大きな出来事は、水がするのではなく、水と結びつき、水と共にある神のみ言葉を信じる信仰によって起こります。神のみ言葉と共にあるとき、水は単なる水ではなく、永遠の命に至る水、恵み深い命の水となります。
また、私たちにとっての「いのちの水」、それは聖書に記されているみ言葉です。私たちは、み言葉に養われ、み言葉によって生かされています。キリスト者として生きるということは、この「いのちの水」、み言葉によって生かされるということ、み言葉を通してイエス・キリストとつながって生きるということです。疲れた時、苦しみの時、前に進むことができないようなとき、疲れを癒し、その苦しみをやわらげて下さる方がおられる。そして主はわたしの苦しみを共に背負い、休ませてくださるのです。主は今日も私を招いてくださり共にいて、決して渇くことのない、「いのちの水」を与えてくださっています。
お別れ遠足~マリンワールド~
先週の金曜日、日善幼稚園のお別れ遠足で、マリンワールドに行きました。計画では武雄にあるメルヘン村に行く予定だったのですが、天気予報が雨であったこと、また予備日となっていた日も雨予報だったこともあり、急遽場所を変えて実施することにしました。お別れ遠足は、今まで一緒に過ごした年長さんとの時間を楽しく過ごすという目的もあり、バスの座席は、年長さんとのペアで座りました。久留米から途中渋滞もあり、到着まで1時間半ほどかかりました。到着して駐車場から入口までも歩かなければなりません。レインコートは着ていますが、かなり激しい雨の中、子どもたちは年長さんに手を引かれて歩きました。2時には園に戻らなければならないので、館内で過ごす時間は、お弁当の時間も含めて2時間弱しかありませんでした。つまり水族館の中をゆっくり見て歩く時間は、あまりなかったということです。しかも雨ということもあり、多くの幼稚園、保育園などの団体も入っていました。子どもたちは、短い時間ではありましたが、チンアナゴを真剣な目で見つめ、ムツゴロウの動きに驚き、小さな石の陰に潜む二ホンガエルを見つけて歓声をあげ、水槽の中を掃除するダイバーに驚き、本当に楽しんでくれていました。イルカショーの時間はもう過ぎていたのですが、ショーの座席でお弁当を広げると、特別サービスで、イルカがいくつかのパフォーマンスを披露してくれました。イルカショーを初めて見る子もいましたが、少し水しぶきをあびながら、歓声をあげていました。暗い所に入ったとたんに泣いてしまい、不安になっている子もいましたが、明るい所では笑顔が戻りました。
教師は、時間どおりに行動すること、混雑した館内で子どもたちが迷子にならないように気を配ることばかり考えて、疲れただけの日だったかもしれませんが、子どもたちの短い時間でも思い切り楽しむ姿、小さなことに驚き、喜び、感激し、歓声の声を上げる姿に「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない(マタイ18:3)」主イエスの言葉を思いおこしました。
帰りのバスは、往路とはまた違う年長さんとお隣の席に座りました。学年を越えて、楽しくジャンケンをしたり、おしゃべりをしたりする姿を見て、「無事終わった」という安堵感とともに、教師も温かい気持ちになりました。
「楽しかった!」という子どもたちの声を聞いて、疲れもとんでいきました。卒園まであと1週間、終園まであと2週間です。主がいつも子どもたちと共にいて励まし、慰め、成長させてくださったことに感謝するとともに、子どもを通して学び、子どもと共に育てられている自分に気づかされました。