「新しく生まれる」2026年2月28日 四旬節第二主日 説教要旨

第一日課  創世記12章1~4a節
第二日課  ローマの信徒への手紙4章1~5、13~17節
福音書   ヨハネによる福音書3章1~17節


「新しく生まれる」

今日の福音書日課はニコデモの物語です。ニコデモは「ファリサイ派のひとりで、ユダヤ人たちの指導者であった」とあります。彼は厳格な律法教育を受け、学歴もしっかりした者です。「ユダヤ人たちの指導者」というのはサンヘドリンと呼ばれた、ユダヤの最高議会の議員です。学識があり、社会的地位があり、尊敬され、評判も得ていた人物です。そういう人がイエス様のところに、夜こっそり来たのですから、他のファリサイ派の人々のように、イエス様を罠にかけようとか冷やかし半分に来たのではありません。彼は「この人こそ神の子なのかもしれない」と思い、自分の問題として、そのことを確かめたいと思ったからやって来たのです。しかも誰にも見られたくないという思いもあり、夜こっそりとやってきたのです。

ニコデモに対してイエス様は「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われます。しかし彼は、自分は学歴もあり、自分の生活、社会的地位を捨ててまでイエス様に従おうという気持ちもないし、その必要もないと思っているのでしょう。イエス様のところにやってきたのは、今ある自分に満足しきれていないところがあったのかもしれません。彼の返答はいかにもピントが外れています。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」イエス様はその返答に対して、さらに深い真理を語られます。「誰でも水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない。」否定的な表現がされていますが、言い換えれば「人は水と霊によって新しく生まれることができる」ということです。「水と霊」とは一つのものとして並べられています。つまり「水と霊による洗礼によって人は新しく生まれることができる」ということです。

「霊」というのは、理解が難しい言葉です。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかをしらない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」霊というのは、風のようなものです。ギリシア語では、πνευμα 息、呼吸、風、霊、すべて同じ単語です。風は、目には見えないけれども、私たちはその音を聞くことができるし、身体で感じることもできます。霊も風と同じようなものだというのです。

イエス様の言葉を理解することができず、混乱しているニコデモに対してイエス様はこれから自らの身に起こる出来事について、モーセの話を出して語ります。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、民数記21章に記されています。荒野での流浪の旅に耐えられなくなったイスラエルの民は、神とモーセに対して非難します。そのとき、神はモーセに青銅の蛇をつくらせ、それを掲げることによって民を救い生き延びることができるようになります。「人の子も上げられなければならない」これは、イエス様は「上げられる」つまりは十字架に上げられるということです。モーセの掲げた青銅の蛇は人々を救い、生き延びることができました。しかしそれは一時的なものだったと言えます。しかしイエス様が十字架に上げられ、そして自ら十字架の苦しみを受けられたことは、私たちの罪を赦し、新たに生まれさせるためです。「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」一時的な救いではないのです。
私たちは「ニケア信条」によって次のように信仰の告白をします。

 「主は私たち人間のため、また私たちの救いのために天から降り、聖霊により、おとめマリヤから肉体を受けて
人となり、ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ・・・」

主の十字架は「私たち人間のため、すべての人、人類のため」なのです。

ローマの信徒の手紙5章8節には次のように記されています。
「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」
主は私たちのために死んでくださり、私たちに対する愛を示してくださいました。
私たちが、この十字架の出来事を自分自身の事柄として受け入れ、受け取ることができたとき、主イエスの十字架は、わたしのための十字架になります。そこに私たちがひとりひとり水による洗礼を受ける意味があります。

ルターは「小教理問答」の中で「洗礼とは、単なる水ではなく、神の命令に含まれ、神のみ言葉と結びついた水であります」と答えています。洗礼は水がするのではなく、神のみ言葉と共にあるとき、その水は、恵み深い命の水となり、霊の力、聖霊による新しい生まれ変わりの洗いとなるのです。洗礼によって、罪の赦しをもたらし、死と罪の奴隷から救い出され、信じるすべての者に、永遠の命が与えられます。

ニコデモはこのときは、その信仰はまだ不十分なもので、イエス様の言葉を理解することができずに終わります。しかしヨハネ福音書の最後に再び登場します。「前に夜イエスの許に来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包んだ。」と記されています。彼は社会的地位もあり、信用ももっている者として、おそらくピラトに物申すことができる者として貴重な働きをしたのです。あのときはイエス様のいうことを理解することができずにいたけれど、やはり「この人こそ神の子なのかもしれない」という思いは持ち続けていたということです。

洗礼によって新しく生まれる。私たちは、自分の力や能力によって生まれ変わったのではなく、霊の力、神様からの一方的な恵みによって新しく生まれ、キリストによって生きるものとされました。その独り子をお与えになったほどに、世を愛された神様によって生かされています。社会的な地位、 人々から尊敬される立場や財産、あるいは善い行いによって救われるのではなく、ただ神様からの一方的な恵みによって、新しく生まれ、キリストによって生きるものとされています。だから人を批判したり、裁いたりすることもできないのです。ニコデモがあの夜、イエス様の言葉を理解することができなかったことを笑うことはできません。教会から離れてしまった人がいても、一時の状態だけをみて「あの人の信仰は不十分だ」「本物ではない」と判断してはならないのです。神様は相応しいときに相応しい形でその人の信仰を深め、また用いてくださる方だからです。わたしのために十字架の苦しみを受けられた主の愛に支えられて、主の愛に生かさて、新しい週も感謝の日を過ごしてまいりましょう。

 

ミラノ・コルティナ冬季五輪を終えて・・・感謝すること

ミラノ・コルティナ冬季オリンピックが終わりました。オリンピックとなると当然日本選手を応援し、夢中になって声援を送る。皆さんはいかがでしたか。そして数々の感動シーンを共有することにより、応援する私たちもたくさんの元気をいただきました。試合を終えた選手は、インタビューで必ず家族、コーチ、自分を支え応援してくださった方々への感謝の言葉を述べます。自分がこれまで積み重ねてきた努力の結果であるのに、感謝することを忘れません。その言葉にまた見ている者は、感動するのです。自分の目指したメダルには届かなかったときも、決して他人のせいにしたり、環境の違い、ルールの変更などのせいにしたりすることなく、その結果を受け入れ、次への決意を語ります。フィギュアスケートの坂本花織選手は、高校生のとき自分で地元の企業シスメックスに直筆の手紙を書いてスポンサー依頼をしたといいます。アスリートは海外遠征が多いため、スポンサーがいなければ競技を続けることができません。他人まかせにしないその強い意志に驚かされます。ひとりひとりのアスリートのスポーツに挑む姿勢と言うよりも生きる姿勢から多くを学んだ17日間でした。感謝!

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