「地の塩、世の光」 2026年2月7日 顕現後第五主日 説教要旨

第一日課 イザヤ書58章1~9a節
第二日課 コリントの信徒への手紙Ⅰ2章1~12節
福音書   マタイによる福音書5章13~20節

福音書日課(聖書協会共同訳)マタイによる福音書第5章13~20節
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。しかし、これを守り、ま た、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

本日の礼拝から、福音書日課は、2018年に出版された新しい翻訳「聖書協会共同訳聖書」を用いて朗読することにいたしました。2010年に翻訳を開始し、7年間かけて終了しました。カトリックとプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業で世界最大の聖書翻訳ネットワーク「聖書協会世界連盟」による研究成果と、国内の著名な聖書学者・日本語の専門家によって翻訳されました。特に礼拝で朗読するにふさわしい、格調高く美しい日本語訳であることが特徴とされています。

「あなたがたは地の塩である」とはどういう意味なのでしょうか。イエス様のこの山上の説教を聞いている弟子たちにとって、「塩」というのはどういうものだったかまず考えてみたいと思います。

第一に味をつけるということです。塩味をつけることによって、食欲を増進させる効果も期待できます。日本人の場合、味噌や醤油といった日本の食文化を代表する調味料にも塩は使われているので、塩の無い生活を送ることは難しいと言えるでしょう。しかし塩加減というのは、なかなか難しいものです。塩気のない食べ物はまずいものですが、逆に塩を入れ過ぎてしまっても食べられません。塩は、他の味を引き出すためにも用いられます。小豆や黒豆など豆を煮るときには、少し加える塩が甘味を引き出します。魚や肉に塩を振ってから焼くと、脱水作用から生臭さが取れるだけではなく、身が引き締まり、また内部の旨味を閉じ込めることができます。塩は、隠れているところでこそ、よい働きをします。
「あなたがたは地の塩である」ということは、自分は目立たないで、他のものを引き立てるために働く。他の人が本来もっている能力を引き出す、さまざまな理由で失いかけてしまっていたり見えなくなってしまっていたりする良さを引き出してあげる、そのような役割をすることなのではないでしょうか。

第二に食品から水を抜き、腐らせないことです。水分が減ると、微生物が繁殖しにくくなり、食品を長持ちさせることができます。漬物が長期保存できるのは、塩分濃度の高さによって微生物が繁殖しにくくなるからです。また肉や魚を塩漬けにして保存する「塩蔵」という日本古来の方法があります。私たちの生きるこの地上の世界は、神の心から離れ、私利私欲によって動いていることで溢れています。そのような地上の世界において、塩のような働きをする人、腐ったこの世を正す、腐らないようにすることが求められているのではないかと思います。

第三に、レビ記に記されているように、清めという意味です。日本では、主に葬儀や通夜式の帰りに、死の穢れや邪気を自宅に持ち込まないよう、玄関先で体に振りかけ払うための「清めの塩」という習慣があります。相撲で力士が取組前に土俵に撒く塩も「清めの塩」と呼ばれ、神聖な土俵の邪気を祓い、力士自身の心身を清めて怪我なく安全に取り組みを行うために行います。創世記18章のソドムの物語において、神は正しい人が10人でもいれば滅ぼさないと言われました。神様は社会にたとえ少数であっても、正しい人がいればそれによってあたかもその社会全体が清いがごとく見てくださることがあるのです。清めることによって救いがもたらされるのです。

塩の働きから「あなたがたは地の塩である」という意味を考えてみましたが、塩はそのままの姿ではなく、隠れてこそ働きをなします。またわずかな量であっても働きをなすものです。イエス様は、地上の世界に人の子として遣わされ、全ての人に愛を注いでくださいました。私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によって新たに生きる道が示されました。それは、見えない隠れた所であっても良い働きをなす者としてキリスト者を用いてくださっているということなのです。

次に「あなたがたは世の光である」とも言われました。私たちは、職場や友人の間で自分がクリスチャンであることを言わないでいるということがあるのではないでしょうか。イエス様は「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」と言われます。これは、キリストの証人となるということです。クリスチャンというと、まじめで清貧な人、立派な行いをする人のように思われるのではないかと、心配するのかもしれません。クリスチャンであっても色々な人がいること、そして、主は全ての人を分け隔てなく愛してくださる方であることを示すために私たちは世の光となっていかなければならないのです。「世の光」であるキリストによって、キリストの光を鏡のように受けて私たちは光となり得るのです。

「地の塩」「世の光」この二つは相反することでもあります。「地の塩」の地、「世の光」の世、どちらも私たちが生きる場所をさしています。「塩」はその形がなくなり隠れているときにこそその働きを示すことができます。それに対して「光」は燭台の下にあったのでは意味がなく、燭台の上に置かれて初めて働きを為すことができます。「地の塩である」「世の光である」と二つの対比する言葉が並べられているのは、目立ちたくない、隠れたところにいたいと思うときにこそ、世の光として召されているということを聞かなければならない。逆に自分自身がとして輝きたい、尊敬を受けたいと思うときにこそ、自分自身が光を発しているのではなく、キリストの光を反射して光を発することができているにすぎないこと、そして私たちが光を輝かせるのは、キリストが崇められるためだということを知らなければならないのです。

イエス様は、「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」と命じられたのはなく、「地の塩である」「世の光である」と語られました。私たちはすでにイエス・キリストによって「地の塩」「世の光」とされているということです。イエス様の言葉によって私たちは「地の塩」「世の光」として生きて行く道を示されています。「地の塩」「世の光」としてなすべき働きを託されているのです。塩として隠れたところでなすべき働きは何か、光として輝かせるべき働きは何か、わたしたちに示されていることは何か、見出して共に歩み出してまいりましょう。

今日は礼拝後、2026年度の教会定期総会が行われます。今年度の主題聖句としてコリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節の言葉を選びました。コリントという都市は、政治的というよりもアドリア海とエーゲ海の二つの海に面した二つの港を持つ交通の拠点として商業的に重要な都市であり、多種多様な人々が行き交う自由な文化的中心地であったと言われています。政治的にも文化的にも自由な空気に満ちていた所であったゆえに、パウロの伝道はまれにみる成功をおさめ、キリスト者の群れは増え、信仰的高揚は先細りを見せることなく、パウロの伝道の拠点ともなり得たといいます。コリントの第一の手紙はパウロが去った後、混乱が起き始めたコリント教会からあらかじめ寄せられていた具体的な質問に答える形式の論述が数多く見られますが、この第二の手紙はパウロが自分の使徒職について説明し、擁護し、弁明するために書いた手紙です。そのためパウロ自身の生の姿が表され、自分自身を語っているのが特徴とされています。16節「わたしたちは落胆しません」この言葉は4章1節の言葉を受け、復活した主イエスへの確固とした信頼を示します。「日々新たにされる」というのは、若返るという意味での新しさではなく、「今までになかった質的な新しさを帯びていく」ことを意味します。「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」主イエスが聖霊によってわたしたちの「内なる人」を強め、信仰によって、わたしたちの心の内にキリストを住まわせ、愛によってしっかりと立つ者にしてくださる」ということです。

私たちルーテル教会は、かつて若者が多く集い、活気にあふれた時代とは異なり、信徒の減少、高齢化、経済的厳しさ、そして何よりも教職者の不足は深刻な問題です。しかし主イエスへの確固たる信頼心を持ち、キリストの愛によってしっかりと立ち、この地での宣教活動をなしていきたいと思います。私たちの新しい1年の歩みを、主が傍らに立って支えてくださることを信じ、質的な新しさを目指して共に歩んでまいりましょう。

日の出をみながら・・・

  2月の福岡の日の出時刻は7時10分前後です。私は毎朝、7時13分西鉄二日市駅発の特急で久留米に向かうので、家を出るときは、まだ薄暗いのですが、西鉄電車で久留米に向かう途中で、丁度東の空、山間からオレンジ色の鮮やかな太陽が昇るところを見ることができます。太陽神を信じているわけでもないのですが、日の出を見ながら、今日、1日無事に過ごせるようにと、主に祈ります。

太陽神とは、AIの説明によると、「世界中の神話において最高神や中心的な崇拝対象として描かれる、太陽を神格化した存在です。日本では、天照大神が有名であり、エジプトのラー、ギリシャのへ―リオスやアポロ―ン、インドのスーリヤなどが代表的で、光、暖かさ、命の源として位置付けられています」と記されています。日本では、初日の出を拝みに行く人、富士山の頂上で迎える「ご来光」を拝むために、富士登山をする人は多くおられます。富士山の頂上で迎える「ご来光」は午前4時~5時ころに見られる神聖な絶景ですので、八合目付近の山小屋に前日宿泊して計画的に移動しなければ見ることはできません。富士山に登るならば、是非とも見たいイベントで、とても人気があり、深夜から早朝にかけての登山道は大変混雑すると言います。

日の入り時刻は17時50分ごろで、立春を過ぎて、少しずつ日の入りが遅くなっていることを感じます。久留米を出るのが18時ころなので、あまり見る機会がないのですが、ときどき日の入りと同時に夕焼けを見ることができます。夕焼けを見る時は、明日も天気が良くなりそうだと思います。日の出時刻が早くなり、日の入り時刻が遅くなることによって、少しずつ春が近づいていることを感じます。

朝の自由遊びの時間、「虫探しをしよう」と園児が声をかけてきました。今は土の中で眠って春を待っている時期だから見つけるのは難しいことを話すと、花壇の土を掘り始めました。昆虫の卵や幼虫を見つけるときもありますが、残念ながら何も見つけることはできませんでした。昆虫は春になるのをじっと土の中で待っているのだから・・・と話しながらまたそっと土をかぶせました。球根を植えたプランターを眺めながら、いつになったら芽が出てくるのか楽しみにしています。幼稚園では新入園児の説明会を行いました。水仙の花が咲き、木の芽が出始め、沈丁花のつぼみが膨らみ、動物も虫も、花も木の芽もそして子どもたちも保護者も春が近づいていることを感じています。冬の朝の静けさの中で、すべての命が守られていることを感じます。「球根の中には 花がひめられ、さなぎの中から 命はばたく。寒い冬の中 春はめざめる。その日その時をただ神が知る」(讃美歌21 575番)

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