第一日課 ミカ書 6章1~8節
第二日課 コリントの信徒への手紙1章18~31節
福音書 マタイによる福音書5章1~12節
今日から福音書の日課はマタイ福音書5章から7章にわたる「山上の説教」を読み進めることになります。
イエス様は、まず「こういう人たちは幸いである」と「八つの祝福」の言葉を語られました。イエス様が最初に祝福したのは、「心の貧しい人々」でした。「心の貧しい人々」とはどのような人々のことをいうのでしょうか。「心が貧しい」というと「貪欲で人のことを考えない」とか「包容力がない」とか「自己中心的である」ということになるように思いますが、ここではそのような意味ではありません。ルカ福音書では「貧しい人々は、幸いである」となっていることからもわかります。イエス様はまず、実際に貧しい人、財産も何もないような人に心を留められたということです。徹底的に貧しく、心の中まで貧乏になってしまっている状態ではないかと思います。ではなぜこのような人々が「幸い」なのでしょうか。私たちの常識からすれば、「心の貧しい人々は不幸である」ということになるのに、イエス様は全く逆のことを言われました。それは、まさにイエス様はそのように物質的にも精神的にも貧しい人のところに来てくださる方だということです。イエス様は貧しい人をそのままにはしておかない。そして「天の国はその人たちのものである」、天の国に招きいれてくださることを約束してくださいました。
「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」悲しんでいるとき、励ましの言葉をかけられると、慰めを与えられます。しかしそれだけでは「幸い」とは言えないでしょう。悲しむような出来事がないにこしたことはありません。私たちの常識を超えた言葉です。イエス様は、人々に裏切られ蔑まれ、誰よりも大きな悲しみと苦しみを経験されて十字架の死を遂げられました。「悲しみ」を「幸い」と言うことができるのは、イエス様の口から出た言葉だからです。「慰める」と訳されている言葉は、原語では「味方につく、自分の傍らに呼び寄せる」という意味があります。そこから「助ける」「励ます」「慰める」「元気づける」という意味になりました。ですから「悲しむ人々が慰められる」とは、「悲しんでいる人の傍らに立って、味方について、助け、慰め、励ましてくれる」ということになります。一人ではとても耐えることができないような悲しみの中にあるとき、誰かが味方につき、傍らに立って、助け、励まし、慰めてくださるということです。誰が傍らに立ってくださるのか、その方こそ主イエス・キリストです。イエス様は、2000年前と変わらず、聖霊によって今も私たちの傍らに立ち、共にいて、共に生きてくださる方なのです。
「味方について、傍らに立って、助け、励まし、慰めてくださる方がおられる」、ひとりぼっちになることはないと知った私たちは、そのことを一人でも多くの人に伝えていかなければなりません。悲しみの中にある人、苦しみの中にある人のところに主イエスが来て慰めを与えてくださることを伝えていかなければなりません。私たちも、孤独を感じている人に気づき、その人に対して、慰めの言葉をかけるよりもまず傍らに立ち寄り添うこと、そしてひとりぼっちではないことを伝えることです。そのようなとき、私たちを通して、主イエスは聖霊の働きによって、その人に慰めと励ましを与えてくださいます。
「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。「柔和な人」とはどのような人のことでしょうか。聖書に記されている「柔和な人」とは、単に穏やかで温厚な人ということよりも「攻撃された時も争わず、思いやりと忍耐を持ち、神への信頼を基盤に優しく穏やかである人」ということでしょう。マタイ福音書11章には「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と記されています。イエス様こそが「柔和で謙遜な者」なのです。「柔和な人は、地を受け継ぐ」この約束は、イエス・キリスト御自身において真実なものとなったと言えるでしょう。そしてこのイエス様のお姿に倣い、弟子となる者、弟子とされることによって、「地を受け継ぐ」ことが約束されるのです。
「心の貧しい人」「悲しむ人」「柔和な人」さらには八つの祝福は、「義に飢え渇く人」「憐み深い人」「心の清い人」「平和を実現する人」「義のために迫害される人」と続きます。これは様々な性格の人が並べられているように見えますが、これらすべてがイエス・キリストのお姿です。イエス様こそがこのすべての言葉に相応しい方です。これらの祝福はすべて語られたイエス様ご自身において実現しているのです。イエス様はこれらの言葉を通して「わたしについてきなさい」そうすることによって、これらの祝福を得ることができるのだと語っておられるのです。
来週は教会定期総会が予定されています。新年度の主題として「より豊かな礼拝を目指して」ということを示し、その基本方針として「礼拝の賛美を豊かにするために、教会讃美歌増補版、讃美歌21など新しい讃美歌を歌う喜びを味わう」ということをあげました。今日は増補版34「いかに幸いなことか」を選びました。この曲を作詞された石原祐子さんは、賀茂川教会の方で、公募で寄せられました。この讃美歌解説には次のように記されています。「友の病気を知らされ、そのつらさを思い、なんと声をかけたらよいのか分からず祈っていた日に、申命記33章26節、29節の言葉が与えられました。『エシュルンの神のような方はほかにはない。/あなたを助けるために天を駆け/力に満ちて雲に乗られる。/イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。/あなたのように主に救われた民があろうか。』悲しんでいるわたしたち、病のなかにあるわたしたち、うちひしがれて途方にくれているわたしたちに、主は今、『あなたは幸いだ』と宣言してくださいます。自分のなかに人を励ます力はないけれど、この主の祝福を、心をこめて伝えあう者にならせていただきたいと願います。主がみことばによって力強く約束してくださったように、今盾となって大切な人たちを守り、永遠のみうでによって支えていてくださいますように」
主は悲しみのとき、弱っているときにこそ、味方となって、傍らに立ち、励まし、助け、慰めを与えてくださるのです。「幸いなるかな」この主の宣言は、賛美を通して、ひとりひとりの心に届きます。
マラソン大会 小さなドラマ
1月23日(金)日善幼稚園のマラソン大会でした。久留米市中央公園内の陸上競技場サブトラックを借りて行われました。日常の保育において、特に走ることを重視しているわけでもなく、子どもたちは自由遊びの中で鬼ごっこをする程度でしたので、わざわざ400m6コースのサブトラックで実施する目的がよくわかりませんでした。マラソン大会に向けて事前に2回練習を行いましたが、子どもたちは初めての大きな競技場、400mのランニングコース、まずその広さに戸惑っている様子でした。久留米市は、幼稚園、保育園から小学校、中学・高等学校と学校教育の中でもこの時期、マラソン大会が当たり前の行事として行われているそうです。1月10日には、「くるめ筑後川Raysマラソン」も開催され、初心者から上級者まで20㎞、10㎞、5㎞の種目が準備され、市民ランナーも多いのでしょうか。「マラソン大会は久留米市の伝統的な文化?」というところでしょうか。
当日は雪の予報も出されていましたが、日差しは暖かく、思ったよりも寒くなく、子どもたちは朝から気持ちが高揚している様子でした。年齢ごとに走る距離を決めて、年中組(3歳児)から走り始めました。先生が先導し、先生についてきちんと走ることが出来る子、集団から遅れてしまうと歩き始めてしまう子、途中転んでしまうと、なかなか立ち上がれない子、最後にはハイハイをしてしまう子、色々でした。途中歩き始めてやめてしまうかと思えば、最後10mくらいはまたスイッチが入り、全速力で走ってゴールする子もいました。1位になって喜ぶ子もいれば、途中転倒によって抜かされ、悔し涙を流す場面もありました。1時間ほどのマラソン大会でも色々な小さなドラマが繰り広げられました。
友達の応援、保護者の方々の応援も大きな力となったようです。先生が先導して走ってくださると共に、遅れてしまったり、コースを外れてしまったりしたときには、先生が駆けつけて励ましの声をかけ、何とかゴールにたどり着くように一緒に走りました。
マラソン大会の前の月曜日の礼拝では、つらいな、もうやめたいなと思ったときもイエス様が一緒に走ってくださって力をくださっているので最後まで頑張ることができるようにとお話をしました。
私たちの歩むべき道も主は常に先に立ってその道を示して導いてくださっています。「わたしについて来なさい」と声をかけてくださっています。そして、私たちが道に迷ったとき、見失ったとき、立ち止まった時には、共に歩み、後ろから支えてくださっています。子どもたちの走る(ときに歩く)姿を見て、応援しながら「わたしについて来なさい」主の呼び声に耳を傾けていました。