「何を見に行ったのか」  2025年12月13日 待降節第三主日 説教要旨

第一日課 イザヤ書35章1節~10節
第二日課 ヤコブの手紙5章7節~10節
福音書  マタイによる福音書11章2節~11節


旧約の時代、イスラエル民族にとって、預言者の果たした役割は大きなものでした。紀元前8世紀以降、イスラエル民族が様々な困難にある中で、預言者たちは、神の言葉を語り、警告を与え、正しい道を示して、さまざまな誘惑や迷いからひき戻し、ただ神への信仰を持ち続けることができるように訴え続けました。

預言者とは、神の証人であり、預言者の言葉によって、見えざる神が、聞き得る者として啓示されました。困難な時代の中で、イスラエル民族の信仰は、預言者を通して守りぬかれたのです。預言者たちは何世紀にもわたってイスラエルの民に、神の国が到来し、罪と悪が滅ぼされる時代が来ることを預言しました。そして選ばれた民であるイスラエルに神の国がもたらされ、イスラエルから地上のすべての国々にそれは拡げられていくと信じられていました。そしてダビデの血筋に、やがて救い主メシアが誕生し、待望の神の国が実現することを待ち望むようになったのです。

洗礼者ヨハネは、領主ヘロデの罪をあからさまに告発したために、捕らえられていました。そして彼は牢の中で、死の恐怖のなかにある、極限状況で、不安といらだちを覚えていました。彼は、メシア、救い主の到来を信じていたにもかかわらず、牢の中で不安になり、弟子たちをイエス様のところに送り、尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか。」人々が長いこと待ち続けてきたメシアは、この人に間違いはないのだろうかと不安になったのです。本当にあの人、イエスに託して大丈夫なのだろうかと不安を抱きつまずきかけたのです。

そこでイエス様は「そうだ、自分がメシアだ。間違いない。」と直球の返答をすることはなさいませんでした。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされる」と答えられます。本日の旧約日課、イザヤ書35章5節以下に記されている言葉に基づく返答です。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。/口の利けなかった人が喜び歌う。」イエス様の宣教の業は、旧約の預言に留まらず、「重い皮膚病を患っている人は、清くなり」「死者は生き返り」「貧しい人は福音を告げ知らせる」が加えられ、旧約の預言者、そして洗礼者ヨハネによって示されたことよりもさらに広がりを持ち、人々の想像と期待を超えるものでした。

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエス様は群衆に対して洗礼者ヨハネをどのように見ていたのかと問われます。「風にそよぐ葦」とは時流に従う人、世間の風潮に流される人を比喩的に表しています。また「しなやかな服を着た人」とは表面を着飾って権力をふるい、贅沢な暮らしをしている人のことです。ヨハネはそのどちらでもありませんでした。ヨハネはファリサイ派やサドカイ派の人々のように、厳格に律法を守り、また宗教的儀式を重んじる者に対しても真っ向から批判し、悔い改めを説きました。イエス様は、ヨハネを「預言者以上の者」「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と高く評価しているのです。

「預言者以上の者である。」洗礼者ヨハネは、旧約聖書以来の預言者の系譜に連なるものでありつつ、同時にそれを超えるものでした。ではなぜヨハネは「預言者以上の者」なのでしょうか。それは、ヨハネが他の預言者と決定的に異なり、キリストの道を備えた者であり、直接キリストを指し示したからなのです。「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。』と書いてあるのは、この人のことである。」とイエス様によって、明らかにされている人なのです。

イエス様は群衆に対して3回同じ問いを繰り返されました。「何を見に行ったのか」という問いです。これは洗礼者ヨハネの洗礼を受けるためにヨルダン川に集まって来た群衆に対して、何を見たのか、ヨハネの説教から何を得たのかという問いです。ヨハネによってイエス様の来られるための道備えがされました。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と力強く語られたヨハネの言葉に促されて、人々は罪の告白をし、悔い改めの洗礼を受けました。ヨハネによって道備えがなされ、イエス・キリストによって新しい時代が始まろうとしている。そのことをしっかりと見に行ったのかと問うているのです。自分の目で、ヨハネによって示された新しい時代の始まりを見極めることができているのかと問うているのです。

私たちは、聖書を通して、イエス様の生涯、そしてイエス様の教えられた宣教の働きを知ることができます。聖書は「書物の中の書物」と言われ、世界の大ベストセラーです。聖書は文学としても優れており、深い教養が盛り込まれ、また貴重な歴史書でもあります。しかしそれだけではなく、他の書物と異なり、真に価値があるのは、ただキリストについて語っているからです。キリストの生涯、キリストの言葉と宣教について記されているから価値があり、他の書物とは全く異なる意味を持つ大ベストセラーなのです。私たちは聖書に記されたみ言葉に聞き、主によって生かされ、主によって示された道を生きる者とされました。キリストの証人として、キリストによってとらえられ生かされています。それゆえに「天の国で最も小さな者でも彼よりも偉大」な者とされています。私たちはキリストの偉大さによって「偉大な者」とされているのです。

ヨハネによって道備えがなされ、イエス・キリストによって新しい時代が始まりました。キリストの十字架によってすべての者が罪から解放され、赦され、新しい命を得ることができました。新たに生きる力を得ることができました。イエス様の降誕を待つこのとき、私たちは「何を見に行ったのか」と問われています。私たちのため、私のためにイエス様はこの世に人の子として生まれ、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は行き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」このイエス様のご生涯をしっかりと見てまいりましょう。イエス様は、全ての人を救い、全ての人に福音を告げ知らせるために来てくださいました。私のためにイエス様が来られたということをしっかりと自覚的に見ているかということが問われているのです。福音、喜びの知らせは、私たちひとりひとりに確かに届けられました。そのことをしっかりと見て、受け止めて主によって備えられて道を、主に従って進んでまいりましょう。

2025年 第76回 福岡市民クリスマス

 12月8日(月)福岡市民ホール・中ホールで開催された「第76回 福岡市民クリスマス」に参加しました。

市民クリスマスは、戦後復興の途上にあった福岡の人々の心に小さな希望の光を灯すため、多くの人々の祈りによって始まり、戦後80年を迎えた今年、第76回を数えることとなりました。今回から新しい福岡市民ホールでの開催となり、地元の諸教会、諸団体、企業から多くの協賛をえて、広報宣伝委員、事務局長は、ルーテル九州教区事務局の田村圭太氏(博多教会)が担っておられました。

西南学院大学聖歌隊チャペルクワイアの賛美で始まり、第一部は、弦楽四重奏『プレギアーモ』によるコンサート、第二部は、第172回芥川賞受賞作家、鈴木結生氏によるクリスマスメッセージ、第三部は、福岡市民クリスマス聖歌隊による賛美というプログラムでした。

鈴木結生氏は、牧師家庭に育ち、クリスマスが誰よりも大好きということから、自身の芥川賞受賞作品『ゲーテはすべてを言った』の一部を紹介しながら、豊富な知識、語彙力、作家としての豊かな表現力でクリスマスメッセージを語られました。言葉の端々から幼いときからみ言葉のあふれるなかで育ち、み言葉に支えられて学び、作家としての営みをなしていることが感じられました。芥川賞受賞作品は、まだ読んでいませんでしたが、是非手にとりたくなる本の1冊だと思いました。

福岡市民が集まり、超教派のクリスマスですが、戦後まもなくから始まり、今日まで続けられているということに大きな意味があると思いました。世界各地で戦争や紛争が続き、自然災害や環境破壊によって、人間の命が脅かされている今日、キリストによる真の平和の実現を共に祈り、クリスマスの喜びを分かち合うときが与えられました。パンフレットには、福岡地区及び近郊の全教派の教会、キリスト教関係の学校・幼稚園・保育園が記載されていました。市民クリスマスに参加されたことがきっかけとなり、クリスマスに教会に導かれる方が一人でも多くおられることを祈ります。

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