忍耐によって命を勝ち取る 2025年11月15日 聖霊降臨後第23主日 子ども祝福礼拝

第一日課 マラキ書3章19~20a節
第二日課 テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章6~13節
福音書  ルカによる福音書21章5~19節


イエス様は神殿が崩壊することを弟子たちに予告しました。見事な石と奉納物で飾られている神殿が崩壊するなどということは、弟子たちにとっては想像もできないことだったでしょう。その神殿が一つの石も崩されずに他の石の上に残ることはない、完全な神殿の崩壊を予告されるのです。この世において、戦争や暴動、地震、飢餓、疾病が起こり、人々は敵対し、家族の中でも裏切りが起こると語られます。これまでの歴史を振り返ってみると、人類は、この世において暴動、地震、飢餓、疾病などを繰り返してきました。イエス様はそういう時には、「わたしがそれだ」とか「時が近づいた」ということを言う人が出て来て、人々を惑わし、犯人探しが始まり、悪いのは誰なのか、間違った善悪の判断がなされ、差別やいじめが起こると言われます。イエス様は「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と言われます。この世は神によって始められ造られたものであり、この世の終わり、この世の完成は神によってなされるものだと言われているのです。
イザヤ書11章には次のように記されています。
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来れば/エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。
預言者イザヤは、目の前にあるダビデの王朝は倒され、切り株のようになる。しかしその切り株から若枝が育ち、大地は主を知る知識で満たされる。そして平和の王が生まれると神の言葉を語ります。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっており、神が完成されるという信仰にたち、力強く神の言葉を語るのです。
イエス様は、終末を迎える前に、「あなたがた」は迫害されると言われます。「キリスト者である」ということを告白することによって、迫害を受け、王や総督、この世の支配者の前に引っ張られる。しかしそれが「証しをする機会となる」と言われます。迫害と証しは全く結びつかないかのように思われますが、どんな反対者に対しても、対抗も弁明もできないような言葉と知恵が与えられるから何も心配することはない。すべての人から憎まれ、裏切られることがあっても、イエスこそキリストであると告白し、証しする者は、決して滅ぼされることはなく、命を勝ち取ることができる。命を保証してくださったのです。
キリストの十字架の死と復活によって、髪の毛の一本さえもなくなることなく、命を勝ち取ることができる。キリスト者の命の土台は、キリストにあるのです。この世の終わりのとき、そのときがいつなのか、分からなくても何も心配することはない。ただ主に全てを委ねて、キリストの愛を土台にして生きる命は、決して失われることはないのです。
今日は子ども祝福礼拝を守りました。童話作家の富安陽子さんは絵本『もと こども』の中で、「よのなかは<こども>と<もとこども>でできている」と記しています。元はみな子どもであった。どんな子どももいつかは元子どもになる。人はおとなになっても心の内では子どもを宿している。感動する力、すさまじい好奇心と集中力、微細な変化を見逃さない感覚のアンテナは、芸術や科学の必要な資質である。しかしそのような心の中にあるはずの元子どもの要素は、いつしか失われてしまっている、というよりも、隠されてしまっているのかもしれません。子どもから教えられること、子どもから気づかされることはたくさんあるのです。
今日の終わりの讃美歌を作詞したのは、7歳の女の子、高橋順子さんです。順子さんは1959年9月12日にこの世に誕生しました。生後8か月で歩き始め、ことばの修得もとても早かったそうです。しかし幼稚園卒園を目の前にして、骨肉腫という小児がんの診断を受け、左大腿部から切断をし、幼稚園の卒園式には片足で病院から出席しました。1967年7月16日、8歳で天に召されました。お母さんは、「がまんする」「がんばる」「やってみる」いつも自分に言い聞かせて精一杯生きた順子さんから生きることを教えられたと言います。この詩は二回目の手術を受ける前につくったそうです。明日手術だという本当に心配で不安で耐えられないような苦しみのときに生まれた詩です。だからこそ、その幼い順子さんの信仰、ただ主を信じる信仰に教えられるのです。

どんなときでも どんなときでも/くるしみにまけず くじけてはならない
イエスさまの イエスさまの あいをしんじて
どんなときでも どんなときでも/しあわせをのぞみ くじけてはならない
イエスさまの イエスさまの あいがあるから
どんなときでも イエス様の愛を信じて、イエス様の愛を土台として生きる力を与えられていることを信じて生きる。そのような純粋な信仰は、主を疑う思いは微塵も感じられません。キリストの愛を土台にして生きていきたい、「がんばる」という強い、揺るがない信仰に教えられます。イエス様は子どもたちを招き「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」「神の国はこのような者たちのものである」と言われました。元子どもであった私たちも子どものような心で、ひたすらに主を求め、主の愛を土台として、苦しみのときも悲しみのときも、また喜びのときも、幸せを望み、ここから歩み出していくこと、主の証人として遣わせるように背中を押されているのです。

 

さくら国際高等学校 太宰府キャンパス 高校生の教会見学

11日(火)さくら国際高等学校太宰府キャンパスの高校生(1,2年生22名)が教会見学に来られました。7月に姉妹校である久留米キャンパスの高校生が久留米教会にいらしたことからご依頼を受けました。西鉄都府楼前駅から徒歩1分のところにある、通信制の高校です。大きな集団が苦手な人でも安心して学ぶことができる少人数制の小さな高校だそうです。日程は早くから決まっていたのですが、その後連絡がなく、こちらからお尋ねしたところ、当初は2年生24名、1年生18名、32名の参加、10時30分から12時30分まで2時間の講義ということでした。話して欲しい項目は5項目でした。①キリスト教とは(特に宗派の特徴など)②聖書・十字架などの意味 ③教会の歴史(地域との関わり・建てられた時期) ④礼拝堂の構造や意味 ⑤祈りや黙想の体験。初めて教会に足を踏み入れることになる高校生に対して、これだけの項目について話さなければならないということは、かなりの準備が必要であることが分かりました。倫理社会の授業の一環で、その後課題の提出が求められるようでしたので、分かり易く、しかも退屈しないように話さなければなりません。高校生にむけての講義は殆ど経験がありませんので、かつて勤務していた学校の宗教主任が、キリスト教学校の聖書の授業のテキストとして執筆した本『キリスト教への扉』(鬼形惠子著、2009年、日本キリスト教団出版局)を参考にして資料を用意することにしました。
しかし二日市教会については、周年誌が『宣教40周年記念誌』しかなく、それ以降の資料はどこにあるのかもわからず、礼拝堂の構造や意味も40周年誌には詳細が記されているわけではなく、自分が二日市教会についてあまりにも何も知らないことに改めで気づかされました。(深く反省しました)
高校生には、途中休憩時間をとって、教会全体を自由に見ていただきました。初めての教会にどのような印象を持ったかはわかりませんが、少しだけキリスト教を知る機会になったことと思います。
大きな集団に馴染めず、通信制の学校に通う生徒は全国的にも年々増え続け、ニーズに応えて通信制高校は増えています。高校に通うことが当たり前の時代から学び方、学ぶ場所は色々変わってきました。今後、自分の進路を考え、さらに大学や専門学校に進学して学び続けるのか、社会人として働き始めるのか、今の環境で何とか自分の居場所を見つけ学んでいる生徒たちは、これからも様々な困難や苦労に遭遇し、悩みもがき続けていくことでしょう。そのようなとき、そういえば教会でキリスト教について、聖書について語っていた牧師がいたなあ・・・とどこかで思い出し、教会に足を運んでくれることがあるかもしれないと微かな期待をもったひとときでした。主はいつでもどこにいても、全ての人と共にいてくださいます。   主の平和

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