イエス様は、絶えず祈り続けることを教えられるために、譬えを用いて弟子たちに語られました。その譬えは当時のガリラヤの社会に生きる弟子たち、あるいは民衆には理解できても、今を生きる私たちには理解できないことが多くあります。この譬え話はルカ福音書だけに書かれています。もともとイエス様が語られたことは2節から5節で、後からルカ福音書記者が1節と6~8節を「祈りの教え」として加えて編集したと考えられています。イエス様が語られた2節から5節までを丁寧に読み、イエス様が何を語ろうとされているのか考えてみたいと思います。
まず登場人物の一人である裁判官が紹介されます。裁判官というと、神を畏れ、公平で正しく、賄賂に応じることなく、正しい判決を下すものでなければならないと考えます。しかし旧約の時代から、裁判官は堕落し、公平性にかけていました。「ある町」の裁判官であり、やもめが直接この裁判官のところに行き、訴え続けることができたわけですから、大きな都市のエリート裁判官というより、庶民の身近な困りごとを聞き、判決をくだす裁判官でしょう。裁判は、本来律法に基づいて神から求められる正義が行われるように裁きを行うことでしたが、現実には、「神を畏れず」ということは、神によって定められた律法に基づいて公平な裁判を行わず、そして「人を人とも思わない」ということは、弱い立場の人のことを心にとめて裁判を行うのではなく、権力者に同調し、賄賂を多く払った側に有利な裁判を行うような裁判官、正しい審判など望めない裁判官でした。
もうひとりの登場人物は「その町に一人のやもめがいて」とあります。やもめ、寡婦は孤児・寄留者と共に、社会的弱者の象徴で、抑圧された者、保護されるべき者でした。寡婦は特別な保護を受けられ夫の死後も夫の不動産など一定の財産を得て生活できるように保障されていました。しかし現実には、多くの寡婦は遺産相続されるべき、土地や家屋などの相続をめぐる争いで不当な扱いを受け、困窮し、死をも覚悟しなければならないような生活をしていました。ルカ福音書21章に記されているやもめの献金の物語からもその生活の困窮した様子はよくわかります。レプトン銅貨2枚を入れるのを見て「この貧しいやもめは乏しい中から生活費を全部入れたからである」とイエス様は語られています。「レプトン」は1日の平均賃金と言われる1デナリオンの128分の1で最小のコインです。現代に換算するとレプトン2枚で50円あまりと考えてよいでしょう。このやもめにとってレプトン2枚が生活費すべてなのですからいかに困窮した生活をしていたかということが分かります。
この譬え話でやもめは「相手を裁いて、わたしを守ってください」と裁判官に訴えます。直訳すると「わたしの敵から私を立証してください」となります。「立証する」という意味と同時に「復讐する、仕返しをする」という意味もある言葉が使われています。このやもめは、おそらく夫の死後、受けるべき不動産や財産などを受けることができず、不当な扱いを受けていたのでしょう。自分の正しさを立証し、受けるべき権利を取り戻して欲しいと訴えたのです。
やもめの訴えを聞いた裁判官は、しばらくの間は取り合おうともせずにいます。しかしその後「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしを散々な目に遭わすにちがいない」と考えます。「ひっきりなしにやって来て」これは、「終わりのときまで」「目標が達成するまで」「徹底的に」という意味を持ちます。また「さんざんな目に遭わすにちがいない」と訳されていますが、「顔面を強打する、目の下を打つ」という言葉が使われています。「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官であっても、彼女は目標を達成するまで、やって来て訴え続ける、この訴えを聞かなければ、殴り倒されるという恐怖を感じ、これ以上彼女の訴えを無視し続ける方が大変だと痛感し、裁判をすることにします。権力者に同調し、賄賂を多く払ったものに有利な裁判をするような堕落しきった裁判官は、このやもめの執拗な要求に応えざるをえなかったのです。そしてやもめは、泣き寝入りせず、正義を獲得することができました。
不正な裁判官であっても、執拗に求め続ければ願いは聞き届けられました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」このやもめの姿勢からイエス様は、求め続ければ、ほうっておかれることはなく、その願いは必ず聞き届けられるということを示されました。
ここで「選ばれた人たちのために」と言われています。イエス様は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われました。私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選んで招いてくださいました。では私たちは何のために選ばれ、ここにいるのでしょうか。続けてイエス様は教えてくださいました。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また私の名によって父に願うものがなんでも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」
私たちは選ばれた者として出かけて行って実を結び、その実が残るように遣わされています。社会的な地位が低く、静かに身を引くことが求められたやもめが最後まで目標を達成するまで、粘り強く求め続けたように、わたしたちも主に求め続ける、祈り続けることを教えられています。祈りは必ず聞き届けられる、たとえ、私たちが望んだ形でなかったとしても、神様が相応しい形でその祈りを受け止めてくださいます。そして私たちは、「互いに愛し合いなさい」と命じられています。今この日本の社会においても社会的弱者が蔑ろにされ、苦しみの中で生活している人が多くおられます。厳しい条件で働かれている外国人も身近にたくさんおられます。子どもたちが生きている状況も厳しく、安心して生活できる場さえ奪われている子どもたちがいます。イエス様は常に弱い立場の者に目を向けて、手を差し伸べられ愛を示されました。私たちはそのキリストの愛に支えられて生かされています。私にできること、私がすべきことは何か、それは今ここから出て行って、全ての人のために執拗に粘り強く祈り、全ての人に仕える者となることです。主はいつも私たちと共にいて、私たちの祈りを聞いてくださっています。
九州教区壮年連盟修養会・総会を終えて・・・
10月13日、九州教区壮年連盟修養会・総会が二日市教会を会場に行われました。西南学院大学神学部教授、濱野道雄先生をお迎えして「パレスチナ問題とキリスト教~神の「国」の平和をもとめて」と題して講演をしていただきました。
2023年10月7日、イスラム組織ハマスがイスラエルを奇襲攻撃、イスラエル民間人1200人を殺害し、240人を人質にし、イスラエル軍がガザ地区への攻撃を開始しました。10日、イスラエルとイスラム組織ハマスが和平案の「第一段階」に合意、イスラエル軍は停戦が発効したことを発表しました。講演の最中に、イスラエルでは人質の解放が始まりました。濱野先生の講演は、現地の新聞から得た情報も語られ、「キリスト教はパレスチナ問題のような中東課題に大きな責任をもっている」という言葉は、私たちキリスト者に対して厳しい問いかけと感じられました。
ガザに住み、文学と詩を愛するパレスチナ人青年が、毎日Xに投稿し続けたありのままのガザを綴った本、『オマルの日記~ガザの戦火の下で』を読みました。2024年4月から綴られた心の叫びの記録は、ガザの惨状の真実を伝えてくれています。「イスラエルが何のお咎めもなく学校という学校を爆撃しているせいで、ガザの62万5000人の子どもたちが1年間学校へ通えなかった。(2024年9月4日)」すべての人の命が大切にされ、死と飢えの恐怖から解放され、希望の光がもたらされることを祈ります。