イエス様はエルサレムへの旅の途上におられます。エルサレムへの旅、つまりは十字架の死と復活への旅に向かっておられることが確認され、重い皮膚病を患っている人の癒しの物語は始まります。イエス様はある村に入られると、重い皮膚病を患った10人と出会います。「遠くに立っていた」のは、皮膚病を患っている人は、汚れた者と見なされ、共同体の中で生活することはできず、人々との接触を禁じられていたからです。ですからイエス様に近づいて癒しを求めることもできず、大きな声で叫ぶのです。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫び、病気の癒しを求めます。
イエス様はこの叫びを聞き、重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。皮膚病にかかっているかどうかの判断は祭司が下すことになっていたからです。そして皮膚病が治っていることの宣言も祭司の判断でなされました。イエス様が「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われたのは、治癒の判断が祭司によってなされなければ共同体の中に戻ることができないからです。彼らは自分たちの病が癒されているかどうかは分からないけれど、イエス様の言葉の通りに行動します。そうすると、祭司のところに行く途中で清くされます。
しかし10人の人がいたにもかかわらず、その中の一人の行動だけが続けて記されています。「自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。」一人だけが、自分の皮膚病が癒されたのは、イエス様を通して神の力が働いたからであるということを認識し、イエス様のところに戻って来たのです。「主よ憐れんでください」と遠くから叫ぶことしかできなかった人が、イエス様のところに近づくことができたということから、確かに病気が癒されたことが分かります。この人はユダヤ人から差別を受け、交流することが禁じられていたサマリア人だったのです。わざわざ「この人はサマリア人だった」と記されているのですから他の9人はユダヤ人だったのでしょう。
イエス様は「清くされたのは10人ではなかったのか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と問います。おそらくこの言葉はそこにいた人たちすべてに向けられた言葉でしょう。ユダヤ人であろう9人は戻ってくることはなかった。しかしこの外国人であるサマリア人だけは、自分の癒しがイエス様を通して神の力が働いたことを理解し、感謝し、神を賛美することを忘れなかったというよりも、神に栄光を帰することをせずにはいられなかったのです。
「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とイエス様は宣言されます。このサマリア人は、単に皮膚病が癒されただけではなく、共同体の中に戻り、自分の生活を歩み始めることが許されました。このサマリア人は、イエス様の所に戻って来たことによって、体の癒しだけではなく、心の癒し、真の救いが与えられたのです。
今日の旧約の日課は、ナアマンの癒しの物語でした。アラム王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ気に入られていましたが、重い皮膚病を患っていました。ナアマンは皮膚病の癒しを求めて、エリシャのところにきます。しかしエリシャは直接彼の病を癒すのではなく、使いの者をやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体はもとに戻り、清くなります。」と伝えます。ナアマンはこの対応に怒りを覚えます。しかし家来たちにいさめられ、この預言者の言う通りにするようにと説得され、エリシャの使いの言うようにヨルダン川で7度身を浸すと、彼の体は元に戻り、子どもの体のように清くなります。ナアマンはこの癒しの体験を通して、随員全員を連れて神の人エリシャのところに引き返し、その前に立って言います。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」エリシャは、自ら出て来て、自分の前に立ち、患部の上で手を動かして皮膚病を癒してくれるわけではなく、使いを通して言葉のみで指示をしました。ナアマンはそのようなエリシャに対して怒りを憶えましたが、エリシャの言葉どおりにし、癒されると、戻って来て感謝の意を表し、神の名を讃えます。
ナアマンの癒し、そしてサマリア人の癒しは、単なる病気が癒されたということだけではなく、彼らが神を賛美するために戻って来たことが注目すべきことなのです。私たちは、苦しいとき、悩みのとき、一生懸命祈ります。この苦しみを取り除いて欲しい、この悩みを解決して欲しい、自分ではどうすることもできない壁にぶつかってしまったとき、一生懸命祈ります。自分の周りの人にも祈って欲しいと願い求めます。しかし苦しみが取り去られたとき、悩みが解決への道へと導かれたとき、それはあたかも自分の力だと思いこんでしまうことがあるのではないでしょうか。そして苦しみが取り除かれないときには、こんなに祈っているのにどうして祈りが届かないだろうかと批判的になってしまう。祈り続けることの難しさを感じます。ただ前に進み、目標を目指して走りぬくだけではなく、立ち止まり、戻ってきてイエス様の足元にひれ伏して感謝すること、戻って来ることが出来たとき、はじめて私たちは「立ち上がって、行きなさい」という確かな恵みが与えられるのです。祈りが届かないと感じるとき、それは祈り方が足りないということではなく、主は、必ず祈りを聞いてくださり、別の形で私たちに恵みを与えてくださいます。「主よ憐れんでください」まずは、心からの願いを求めること、それはただひたすらに主を信じ主を求める祈りの姿です。そして癒しが与えられたとき、苦しみ悩みからの解放が与えられた時、戻って来て感謝し、神を賛美することによって、単なる体の癒しが与えられるだけではなく、立ち上がり新しい歩みを始めることができるのです。
今日もこの礼拝に集い私たちは、たくさんの恵みを与えられました。ここから始まる1週間も、祈り、願いそして感謝する日々を過ごしてまいりましょう。主はいつも私たちと共にいてくださり、「立ち上がって、行きなさい」と声をかけてくださっています。
少し前のことですが・・・「第九のきせきin久留米」
9月末、久留米シティプラザで、「手歌」で「第九」というイベントが行われました。「第九のきせき」はベートーヴェンの「交響曲第九番」をさまざまな人々がともに演奏することにより、曲に込められた「喜び」を分かち合うプロジェクトだそうです。このプロジェクトは国内外で展開しているホワイトハンドコーラスNIPPONと共に、手話を基調にして音楽を表現する「手歌」と合唱、ピアノ、ティンパニの演奏によるコンサートです。もっと驚いたことは、日本で初めて一般市民が「第九」の演奏を聴いたのは、久留米だったということです。1919年12月3日、久留米に収容されていたドイツ兵捕虜により、久留米高等女学校(現在の福岡県立明善高等学校)の講堂で行われた演奏だそうです。
日本では「第九」というと年末の風物詩のようになっていますが、「第九」が年末に多く演奏されるのは日本だけです。これは、第二次世界大戦後の混乱期、NHK交響楽団の前身である日本交響楽団が1947年12月に演奏し、絶賛されたことがきっかけで定着したそうです。楽団にとって年末は収入が見込める「餅代稼ぎ」の時期であり、アマチュア合唱団の活動も盛んだったことから定着し、困難な時代に「歓喜の歌」を聴き、新しい年への活力とする人々も多かったため、心の支えとなる音楽としても広まりました。
教会でも幼稚園でも、クリスマスに向けての準備が少しずつ始まります。教会が皆さんにとって喜びに満ちた恵みの場所となることを祈りつつ準備を進めていきたいと思います。