「キリスト者の自由」2026年10月24日 宗教改革主日 説教要旨

第一日課  エレミヤ書31章31~34節
第二日課  ローマの信徒への手紙3章19~28節
福音書    ヨハネによる福音書8章31~36節


キリスト者の自由

キリスト教的人間は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、だれにも服しない。
キリスト教的人間は、すべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。

ルターの多くの著作の中でも、最も多く読まれ、最も有名な書物は、『キリスト者の自由』と言ってよいでしょう。キリスト教的人間は何であるか、そしてキリスト者とは、人間とはいかなる存在なのか、冒頭に記されているのがこの二つの命題です。

第一の命題、「キリスト教的人間は、すべてのものの上に立つ自由な君主であって、だれにも服しない。」とは、どういうことでしょうか。人間は神の恵みによって守られ支えられている存在です。だから迷いや不安から解放され、身も心も軽くなり、自由に生きることができるということです。ルターが「自由」というとき、彼の念頭にあったのは、ガラテヤ書のパウロの言葉でした。「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかり立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません(ガラテヤ5:1)」キリストによって解放されたということは、キリストによって罪の奴隷から救われたということです。「自由」とは「救い」のことなのです。

第二の命題、「キリスト教的人間は、すべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」とは、どういうことでしょうか。第一の命題と相反するかのように感じられます。人間は神によって自由にされ、神の恵みによって守られ、支えられています。もはや自分の利害に固執する必要はありません。自分以外の相手の気持ちに寄り添って奉仕することができるようになるのです。自由とは、「キリストが与えたもう自由」です。ルターは、神様から与えられた「自由」、つまり「救われる」ということを「義とされる」と表現しました。人間は、本来義しい者ではなく、罪深く欠点だらけです。それでも私たち人間は、神様から与えられる一方的な恵みによって救われ、義とされました。イエス・キリストの十字架によって、義しくない人間が神から恵みによって、義しいものとされた、これが救いです。

神様は、私たち人間に自由、救いを与えてくださいました。それは神様が人間に与えてくださった、イエス・キリストという「神の恵みそのもの」です。イエス・キリストが人間に与えられたということは、私たちの中にキリストが生きて働いてくださっているのです。パウロはガラテヤ書の中で「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです(ガラテヤ2:20)」と記しています。このように神の恵みによって救われ、本当の自由を与えられ、隣人のために奉仕することが出来る存在を、ルターは「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになる」と語っています。

「キリストになる」ということはどういうことなのでしょうか。「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者となりました。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした(フィリピ2:6~8)」フィリピの信徒への手紙でパウロはこのように記しています。自分を無にして人々を助け、十字架の死に至るまで徹底してすべての人に仕えた人、だれにでも服した人、隣人への愛の奉仕に生きた方、それが主イエスです。そのキリストが私の内に生きておられるのであるならば、「私もまた、私の隣人のためにひとりのキリストになる」とルターは語ったのです。

今日の福音書の日課で、イエス様は、イエス様を信じたユダヤ人たちに対して「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」と語られます。彼らは「私たちはアブラハムの子孫です。いままで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたがたは自由になる』とどうして言われるのですか」と問います。ユダヤ人たちにとって「自由」とは、単に奴隷ではないことを意味しています。だから自分たちはアブラハムの子孫であり、誰かの奴隷になったことはないから自由なのだと思い込んでいます。イエス様の語られている「自由」の意味を正しく理解していないからこのような発言になりました。イエス様が言われている「自由」とは、「真理」を知ることです。「真理」とは、イエス様自身の言葉で聖書は答えています。「私は道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:5)」イエス様は、真理を伝えるためにこの世に来られました。神さまの愛を伝えるためにこの世に来られました。真理とはイエス様の言葉、その生涯すべてです。十字架の死を通して、神様が私たちに示して下さった神様の愛、それが真理であり、この真理によって私たちは自由にされ、すべての罪から解放されました。私たちはイエス様につながっていなければ罪の奴隷でした。主イエスを受け入れることによって、すべての罪から解放され、自由にされました。さらに、主の復活によって、私たちは「死からも自由にされ」ました。「私の言葉を守るなら、その人は決して永遠に死を味わうことがない(ヨハネ8:51)」主につながって生きることが赦され、死の恐怖からも解放され、永遠のいのちを約束されました。

イエス・キリストによって自由されるということは、真理に近づく、神様の御心に近づく、ただ神様からの恵みによって生かされるということを信じることです。ルターの改革運動は決して順風満帆で進んでいったわけではありません。どちらかというと躓きの連続でした。壁にぶつかり、苦しみ悩むことが多かったと言います。しかしルターは神の恵みを信じ、悩みのときにこそ主は力を与え、助けをもたらして下さる方だと信じていました。ルターの思想を表現する標語はいろいろありますが、「恵みのみ」この言葉が最もストレートに言い表している言葉ということができます。恵みの神の前で救われた自由な存在である人間は、すべての人の前に仕えるものとして奉仕に生きることができると考えていました。

今日は讃美歌をすべて、聖餐の歌も含めて、ルターの讃美歌から選びました。終わりの讃美歌は、教会讃美歌増補分冊16-2は、「神はわがやぐら」として知られている讃美歌です。ルターは40曲以上にも上る讃美歌を作ったと言われていますが、おそらくもっとも有名な讃美歌と言えるでしょう。メンデルスゾーンの交響曲第5番『宗教改革 Reformation』でも、このメロディが第4楽章のモチーフとして引用されています。ルターは宗教改革が勢いにのったときではなく、うまくいかず、壁にぶちあたり気持ちが塞いでいたときに、詩編46編をもとにこの讃美歌を作りました。ルターは、生涯において何度も精神的に落ち込むことがありましたが、「神は必ず苦しみから助け出してくださる」と信じ、祈り、頼るべきは「恵みのみ」と疑うことはありませんでした。慣れ親しんだ歌詞と少し異なり、戸惑われるかもしれませんが、言葉を味わいつつ歌い、「恵みのみ」、主の恵みによって生かされていることを共に確信し、生きる力としていきましょう。すべての罪から解放され、神の恵みによって自由にされた私たちです。自由にされているからこそ、救いを得ているからこそ、「ひとりのキリストになる」すべての人に仕える者として生きることができるようになるのです。

われらのみ神は 堅い城、力/神はわれわれを、悩みから守る
悪い敵が、地の思いを超えた知恵や、手だて尽くし、/攻め襲って来ても。

われらの力は、弱くて空しい。/選ばれた方が、代わりに戦う。
それは誰と問われるなら、万軍の主なるイエス・キリスト/主こそ勝ちたもう。

 

リュウキュウアサガオそしてアサガオ・・・

教会の庭の隣家との境にリュウキュウアサガオが勢いよくつるを伸ばしていました。そのつるが隣家のアパートのタンクの上まで到達してしまったため、刈り取って欲しいと言われ、タンクに上って取り除き、その後、寺﨑さんに刈り取っていただきました。リュウキュウアサガオは、沖縄、および熱帯・亜熱帯地域が原産地です。私は、九州に来て初めて見たので、AIで調べてみました。6月下旬から11月ごろまでが開花時期で、10月ごろに最も多く咲きます。一般的なアサガオとは異なり、朝咲いた花は、夕方まで咲いています。咲き始めは、鮮やかな青紫色ですが、時間と共に赤紫色へと変化します。つるの長さは10m以上になり、非常に旺盛な繁殖力を持ちます。種子がほとんでできないため、増やす際は挿し木や茎伏せを利用します。日当たりと風通しの良い場所を好み、成長が早く、葉が密集するため、夏のグリーンカーテンに広く利用されています。教会のリュウキュウアサガオももとは隣家から入り込んだものだそうですが、つるは、10mどころかどんどん伸び、周りの植木に絡まって大きく育っています。アサガオは、普通は夏に咲くのに、なぜ今頃こんなに元気なのでろうか・・・と思っていた疑問も納得がいきました。

幼稚園の職員室に夏、西日が強くあたるので、アサガオをグリーンカーテンとして植えました。しかし種がよくなかったのか、つるは伸びるのですが、全く咲きませんでした。ところが、9月の中旬過ぎからようやく花を咲かせるようになり、今も、毎朝、花を咲かせています。小学校1年生の生活科では必ずアサガオを育てます。教材用のアサガオは、選ばれた種ですので、発芽率もよく、夏休み前には、花の観察まででき、アサガオの花を使って色水遊びをしたり、押し花をしたりすることができました。夏休み中は各家庭に持ち帰り、引き続き観察をし、種をとります。種は次の年の1年生にプレゼントをするというのが多くの学校で行われている一連の流れです。

リュウキュウアサガオとアサガオ、よく似ているようですが、生息地も開花時期も、色も大きく違うことが分かりました。

今は金木犀が香り、学校ではよく子どもたちが黄色い花を集めて袋に入れて遊んでいたことを思い出しています。今の子どもたちは「トイレの匂い」という子もいます。芳香剤の匂いなのでしょう。草花からいろいろなことを思い出すこの頃です。

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