クリスチャンのことば

神様にいちばん近いOちゃんとの出会い

二日市教会女性会会長のSさん、礼拝での奉仕から、礼拝後の会堂、トイレのお掃除まですべて担ってくださっています。月に1度「林檎の樹の会」(聖書の学びの会)のときには、中心となって昼食の準備をしてくださいます。献立を考え、ご家庭で試作し、安いお店を回って買い出しをし、前日の下ごしらえから礼拝前の準備、すべてリードしてくださっています。韓国初の混声ポプラ(ポップス+オペラ)デュエットHUEのお二人の推し活も熱心で、福岡県内はもちろんのこと、大阪のコンサートまで行かれます。お二人のコンサートが教会でも実現できそうです。

 

神様にいちばん近いOちゃんとの出会い

M.S.さん(70代女性)

わたしがキリスト教と出会ったのは、短大を卒業し、家を離れ、和歌山県の最南端にある串本の幼稚園に勤めていましたが、その園を退職する際に、三浦綾子さんの『塩狩峠』の本を頂いたときから始まります。

退職後、京都に戻り、同窓会で修学院ルーテル教会のなかよし保育園を紹介され、初めてキリスト教保育の保育園に勤務することになりました。当時の園長は小泉小枝先生、初めて出会ったときは、基先生(札幌教会牧師)が1歳ぐらいのときのことでした。朝の礼拝での聖書のお話、お祈り、さんびかすべて初めての経験で、学ぶことばかりでした。キリスト教保育のテキストに基づいたカリキュラム、花の日、感謝祭、クリスマス、イースターなどの心温まる行事、すべてに深く感動しました。求道者会で小泉潤先生から「神」と言えば何を思いますか?と聞かれ、私は、「正直」と答えました。多くは「愛」でしたが、先生は「赦し」と答えられました。しかし私には「赦し」の意味は理解できませんでした。

保育園に障がいのあるOちゃんが入園してきました。可愛くて、天真爛漫で、思いのまま行動していましたが、他園児と共に生活を楽しむようになりました。私の心の中では、神様はどうして障がいのある子どもをつくられたのか疑問に思っていました。そのころ『塩狩峠』を読みました。主人公の信夫に伝道者が「おまえの罪のためにイエス・キリストは十字架にかけられた」と言われた場面では、主人公と同じように否定しました。今まで自分ほど正しい人間はいないと思っていたからです。読んでいるうちに、人間は生まれながらにして罪人、罪深い人間と教えられ、悪口、ねたみ、いじわるも罪と知らされました。そのことを認めることができると、主イエスが、私の罪のために十字架にかかられたと思い、号泣しました。そして肩からスーッと力が抜け、楽になり、自由と平安とが与えられました。罪深い私が赦され、生かされていることに感謝しました。

聖書に、イエス様が、生まれつき目の見えない人を見かけられたときの弟子達とのやりとりの場面があります。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人から現れるためである。」(ヨハネ9:1~3)

私は生まれながら障がいのあるOちゃんは、神様にいちばん近いところにいると知りました。Oちゃんとの園生活で、他の子どもにとっても、思いやり、協力、優しさ、笑顔が育てられました。神様の御業が示されました。

小泉牧師一家とのおつきあいは、先生が修学院教会を離れられても続きました。2013年2月、潤先生が召天され、小枝先生は滋賀県「虹の家」に移られましたが、お訪ねし、幸せな時間を過ごさせていただきました。修学院時代は今も懐かしいときとして思い出されます。

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