第一日課 創世記2章15~17節、3章1~7節
第二日課 ローマの信徒への手紙5章12~19節
福音書 マタイによる福音書4章1~11節
灰の水曜日から四旬節に入りました。四旬節の期間は、復活の日のための準備の期間、つまり主イエスの生涯の最後の日を覚えて、特に十字架の苦しみ、死と復活を覚える期間です。
「イエス様は悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。」とあります。「霊」に導かれたということは、神の意志があったということです。イエス様は、宣教を始められる前に、人間として私たちと同じように、私たちが受ける以上の試みに耐えうるかどうかの経験をし、それらの試みに打ち勝たなければならなかったのです。イエス様に対する最初の試み、それは、40日40夜、断食した後、空腹を覚えられたときに近づいてきたものでした。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」その働きかけに対してイエス様は「『人はパンのみで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と答えられます。この言葉は、申命記8章3節からの引用です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」モーセによってエジプトの地から導き出された民は、荒れ野で流浪の旅を続けなければなりませんでした。食べるものがなくなると、イスラエルの人々は不平を言います。人々の不平不満を受け、神は天からパンを降らせてくださいました。人々の訴えを聞き、飢えたまま放っておかれることはなさらず、毎日マナというパンを必要なだけ降らせて人々を養われました。「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである」つまり、神はパンを降らせただけではなく、いついかなるときも人々を見捨てることなく、人々の声を聞き、それに応えてくださるということ、彼らを養ってくださる方だということを教えようとされたのです。
申命記の言葉は続きます「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」神様はパンだけではなく、必要なものは全て与えてくださったのです。「神の言葉によって生きる」ということは、すべてのもの、食べ物も衣服も住まいも、家族も友人もすべて神様からいただいたものとして、感謝をもって生きるということです。パンが与えられることによって、私たちは、神様を忘れることなく、神様の言葉に心を向けること、神様に立ち返ることができるようになることを神様は望まれています。イエス様は、弟子たちに「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。命のパンに養われて、つまり神の言葉に養われて生きていくものであることを神様は望まれています。
一つめの誘惑に失敗した悪魔は、続けてイエス様をエルサレム神殿の屋根の上に立たせました。イエス・キリストが神の子であることを示す絶好のチャンスでした。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてある」詩編91編の言葉を引用します。これは、神様はどんなときでも私たちを守ってくださるという信仰の歌であるのに、悪魔は誘惑の道具として用いるのです。イエス様にとって神殿の屋根から飛び降りるということは決してできないことではなかったでしょう。あるいはやってみせた方が効果的だったかもしれません。しかしイエス様は聖書の言葉を用いて試みた悪魔に対して、聖書の言葉で答えられます。「『あなたの神である主を試してはならない。』と書いてある(申命記6:16)」後にイエス様は、十字架の上でこのとき悪魔が語ったのとよく似た言葉を聞くことになります。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」「今すぐ十字架から降りるがいい。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。」多くの人々から罵りの言葉をかけられたイエス様は、侮辱の言葉に耐え、死に至るまで十字架に留まり続けることによって、真に神の子であることを示されました。他人を救うため、全ての人を救うために、御自身を救うことはなさらずに、奇跡の力によってではなく、愛によってすべての人を救い、神の子であることを示されたのです。
二つ目の誘惑にも失敗した悪魔は、最後は単純明快な試みをします。「もし、平伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」と訳されていますが、原文では「すべてを与えよう。もしあなたが平伏して私を拝むなら」となっています。「世のすべての国々とその栄華を見せて」全部を与えようと言うのですから、かなり強硬な作戦です。この言葉に対してイエス様は「退け、サタン」と答えられます。もはやあれこれ言う余地はないということです。さらに「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われます。「平伏して私を拝め」と言った悪魔に対して「ただ主に仕えよ」と答えられたのです。悪魔が離れ去ると「天使たちが来てイエスに仕えた」とあります。霊によって導かれて荒れ野に来られた主イエスは、終わりも神の意志によって支えられます。
私たちは人生の途上で、さまざまな試練を与えられます。病や悩みの苦しみの中にあるときには、どうしてこの私がこのように苦しまなければならないのかと神への信頼も失い、投げやりになったり、他人のせいにしたり、心配してくださる方に対しても感謝の思いを忘れてしまうことさえあります。また苦しみから逃れるために怠惰になり楽な方へとすすみ、過ちを他人のせいにしてしまうことすらあります。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(Ⅱコリント10:13)」そのような神様から心が離れてしまっていることが多いのです。「ただ主に仕えよ」ということは難しいのです。悪魔の手口は実に巧妙です。「退け、サタン」主の言葉はまさに今日、私たちに向けられたことばです。主イエスはこの言葉に続けて「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われました。私たちの現実の世界は悪魔の支配下にあるようにさえ見えます。しかしそのような世界にあっても神様は私たちと共にいて、見えざる強い神の支配が力強く私たちを支え、守り導き試練から逃れる道をも備えてくださっています。「ただ主を拝み、ただ主に仕える」ことを求めておられるのです。主イエスの地上での生涯の最後のときを覚えるこの四旬節の期間、十字架の死と復活によってその栄光を示された主にただ仕えていくこと、ただひたすらに求めてまいりましょう。
四旬節が始まりました
18日「灰の水曜日」から、四旬節が始まりました。四旬節とは「悔い改めの40日間」復活の日のための準備の期間です。古代教会では、公の悔俊者が四旬節の初めにエデンの園からのアダムとエバの追放にならって教会から追放され、悔俊者たちは、支給された苦行衣をつけ、昔からの悔い改めの象徴であった灰を振りかけられなければなりませんでした。四旬節の始まりを、四旬節第一日曜日の前の水曜日に定めたときから、この儀式は灰の水曜日として定着しました。そして悔俊者だけではなく、それ以外の信徒たちも、悔俊者たちへの連帯の思いから、灰の水曜日の儀式に次第に参加するようになり、9世紀から10世紀になると、教会での公の悔俊が衰退し、ついには全く廃止され、灰をかける習慣だけが残りました。この儀式に参加し、額に灰で十字を記す。用いる灰は、12世紀以来、前年度の枝の主日の枝から取り、祝福したものとなりました。久留米教会の「灰の水曜日礼拝」では、昨年の枝の主日礼拝で用いた二日市教会のソテツの枝を燃やして灰にしたものを用いました。
四旬節の期間は、主イエスの生涯の最後の日を覚えて、特に十字架の苦しみ、死と復活を覚える期間です。それと同時に代々のキリスト者はこの期間を自らの信仰を顧みる時、自己訓練のときとして過ごしてきました。自己訓練のひとつとして、この期間、断食を行う習慣が守られてきました。肉類や乳製品などを遠ざける伝統的なやり方、また自分の好む飲食物、アルコールやお菓子などを断つやり方、様々なやり方がありますが、現代もこの期間このような断食や摂食を行うキリスト者は決して少なくありません。
私たちは、日常の忙しさの中で過ごしています。特に2月、3月は年度末ですから忙しく過ごされている方も多いことと思います。自らの信仰を顧みるときでもあります。忙しさの中にあっても、心を神様に向けて祈るとき、礼拝に集うときを大切にしていきたいと思うのです。皆さんはどのように過ごされますか。