「この方こそ神の子」2026年1月17日 顕現節第二主日礼拝 説教要旨

第一日課  イザヤ書49章1~7節
第二日課  コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1~9節
福音書   ヨハネに拠福音書1章29~42節


ヨハネ福音書は、マタイ福音書、ルカ福音書とは異なり、クリスマスの物語は、何も記されておらず、独特のプロローグ、序文から始まります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
「言」と一文字で「ことば」と読ませているこのことば、原語では「ロゴス」は、普通の「言葉」とは異なることを意味しています。「ロゴス」というギリシア語は、理性、論理、定義といった意味がありますが、それを「言」と訳しています。ヨハネ福音書は、この世界に遣わされる前のイエスを、名前を用いないで「ロゴス」と言い表します。
ハジマリニ カシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル
コノカシコイモノワ ゴクラク ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル
ヨハネ福音書の冒頭を 日本で最も古い日本語訳であるギュツラフ訳では、このように訳されていました。この訳が出されたのは、1838年(天保8年)ですから明治維新の31年前です。「ロゴス」を「かしこいもの」と訳しているのは、人格を持った方であるということ、「理性の根源である方」ということを表しています。そして神は「ごくらく」と訳しています。

「言」とは何か、誰かということを、ヨハネ福音書は、大変印象的な表現で語ります。「言の内に命があった」つまり、命の源が「ロゴス」「ことば」であること、そして「命は人間を照らす光であった」と続けます。命の源である「ロゴス」は、イエス・キリストであり、そしてこのイエス・キリストとは誰か、何をするためにこの世界に遣わせたのかということを、この序文で明らかにします。
「言」とは、「神の霊」「神の言葉」ということではなく、「かしこいもの」というギュツラフ訳で表現されているように、人格をもった方であること、「言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」というように、「言」は神と等しい方であり、神であったと言います。「言」として神が創造されたイエス・キリストは「人間を照らす光」となった。光となられたイエス・キリストは、暗闇のようなこの世を照らし、そしてその光は消えることなく世界を照らし続け、今も私たちを照らし続けています。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」
ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネを神から遣わされた者とし、ヨハネの役割を明らかにします。そしてヨハネがキリストの証人として、キリストをどのように人々に示されたのかを記します。主の洗礼の場面を記すのではなく、自らの洗礼と、イエス・キリストの洗礼の違いを示します。
洗礼者ヨハネは、「あなたはどなたですか」と問われ、「私はメシアではない」「エリヤではない」「あの預言者ではない」と明らかに証言しています。人々は、洗礼者ヨハネを「もしかすると、自分たちが長い間待ち続けていたメシアかもしれない」と思ったのでしょう。しかしヨハネはその人々の期待をはっきりと否定します。エリヤは旧約聖書の預言者として、メシアが登場する前に、その先行者として再び現れると考えられていました。マタイ福音書では、洗礼者ヨハネのことを「確かにエリヤは来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。」とイエス様の言葉として、ヨハネがエリヤであったかのように表現されていますが、ヨハネ福音書ではヨハネ自身の言葉で「そうではない」とはっきりと否定しています。「あの預言者なのですか」という問いに対しても、ヨハネは「違う」と返答します。「あの預言者」と特定の預言者のことをさしているのは、おそらく「メシア」と同じような意味で用いられているのはないかと考えられます。ヨハネは「メシアでもない、エリヤでもない、あの預言者でもない」ヨハネは自らをイザヤの言葉を引用して語ります。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」自分は「主の道」つまりイエス・キリストが来られる前に、その道備えをする者である、キリストの到来を人々に伝える、叫ぶ声であると証しします。
洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが自分の方へ来られるのを見て
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。この言葉は、私たちが聖餐式のときに歌う「アニュス・ディ」の言葉です。「アニュス・ディ」とはラテン語で「神の小羊」という意味です。出エジプト記12章、過越の物語が前提となっています。神は、「家族ごとに小羊を一匹用意する。それを屠り、その血を取って、家の入口の二本の柱と鴨居に塗る。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。」と宣言します。そしてその神の言葉通りになり、イスラエルの人々の家は救われます。この出来事を背景に、「イエス・キリストこそは、神ご自身が備えられたまことの犠牲の小羊である」と言います。キリスト者とは「この神の小羊によってこそ、世の罪が乗り除かれるのだ」と信じて生きる者です。

私たちルーテル教会では、聖餐式のとき、配餐の前に「アニュス・ディ」を歌います。神の小羊であるキリストが、私たちの罪の贖いとして十字架にかかり死なれたことを覚えて聖餐の恵みに与るからです。キリストの十字架の死によって私たちは罪から解放され平安を賜ることになりました。「アニュス・ディ」は「平和の賛歌」とも言われています。ヨハネは、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言します。
洗礼者ヨハネは「私はこの方を知らなかった」と2度も語って言います。しかしヨハネは、この方がどういう方であるかは知っていました。「わたしにまさる。わたしよりも先におられたかた」「自分はこの方がイスラエルに現れるために、水で洗礼を授けにきた」ということ、自分の役割も知っていました。そして「霊」が鳩のように天から降って来て、この方の上に留まるのを見て、この方が誰であるかが明らかにされ、証しするのです。

今日の日課の後半部分では、二人の弟子がイエス様と出会い、弟子となる様子が記されています。洗礼者ヨハネは、二人の弟子たちに対して「見よ、神の小羊だ」と言いました。二人の弟子は、この言葉によってイエスの方へと向かうのです。イエス様は私たちのために、神の小羊となり、罪を赦し、罪から解放してくださり、そして復活によって、新しく生きる命を与えてくださいました。「世の罪を取り除く神の小羊」「アニュス・ディ」はまさに私たちに与えられた慰めと平安の賛歌です。ヨハネがイエス様の上に霊が降って留まるのを見たように、私たちもイエス様こそ、神の子であると証言することのできる者でありたいと思うのです。私たちはキリストの命を生きる者とされています。二人の弟子たちのようにただ主の方に向かって、主によって備えられた道を歩み出しましょう。

嬉野の旅 パート2・・・安息のとき

嬉野温泉には湯豆腐屋が多くあり、到着後、昼食は湯豆腐ランチを食べに行きました。自家製豆腐を使用した温泉湯豆腐とサイドメニューを提供する木を基調にしたシンプルな「宗庵よこ長」というお店に入りました。「温泉湯豆腐」発祥のお店で、自家製の豆腐は、味・風味・食感など全てにこだわり、一丁一丁丁寧に作っているそうです。温泉豆腐は、口の中に入れるととろけるような豆腐の食感と豆腐の旨味が湯汁に溶け出し白濁するのが特徴の嬉野温泉の名物料理だそうです。濃厚豆腐が溶け出し、豆腐本来の風味が生きた秘伝の湯汁と、とろけるようななめらかな食感・・・まさにHPに記載されている湯豆腐を楽しむことができました。東京の自宅の近くに、自家製の豆腐を製造・販売している老舗の豆腐屋さんがあり、豆腐料理を好んで食べていた豆腐好きの私にとっては、久しぶりの美味しい湯豆腐でした。
轟の滝公園に散策に行った後、コーヒーが飲みたくなり「嬉野コーヒー」が飲めるところを探しました。築100年を越える古い建物、「橋立旅館」という旅館だった建物を譲り受け、カフェ&バーを始めた店を見つけました。「心ここに在りき」という独特の店名です。嬉野コーヒーと自家製カステラをいただきました。嬉野コーヒーは、生豆を一旦嬉野温泉水に浸して、乾かしてから焙煎した豆を使用するそうです。コーヒー豆を温泉に浸すのかと驚きましたが、甘い香りの滑らかなコーヒーでした。「心ここに在りき」という店名は、誰かと話していても、自分が忙しくて「心がここにない」と思うことが多く、せめてこのお店にいるときは、「心ここに在りき」でいたいと思い、この店名にしたそうです。レトロな雰囲気な店の中でゆったりとした時間を過ごすことができました。
この地に赴任して8か月、3つの教会を駆け抜ける忙しさの中で過ごしています。神学校の説教学の授業では、説教を考えるときの基本は、黙想の時間を大切にしてテキストと向き合うことと学びましたが、なかなか集中して説教を考える時間がない、まさに「心ここにない」状態が続いているように思います。温泉に生豆を浸して、時間と手間をかけて焙煎するコーヒーを味わいながら、どんなに忙しくても、心落ち着かない出来事が続いても、黙想の時間を確保しテキストと落ち着いて向き合わなければならないと思いました。毎回の礼拝の初めに「罪の告白」の時間がもたれます。1週間の罪の告白を心の内でするときは、心をこの礼拝に向けるときなのではないかと思います。そして心を開いて、主のみことばに耳を傾け、受け取ることができるのです。
しばしの休息の時間、自分自身と向き合い新たな気づきが与えられました。どんなに忙しくても、休息は必要、天地創造のときから「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」のです。

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