「ナザレの人」 2025年12月27日降誕節第一主日 説教要旨

第一日課  イザヤ書63章7~9節
第二日課  ヘブライ人への手紙2章10~18節
福音書   マタイによる福音書2章13~23節


クリスマスの喜びの出来事の中で、ヘロデによる幼児大虐殺事件が起こります。2000年前の最初のクリスマスは、決して平和なクリスマスではなかったということです。
東方の占星術の学者たちが黄金、乳香、没薬の贈り物をもって、救い主キリストを礼拝しにやってきました。彼らは、エルサレムのヘロデ王を訪ね、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねます。それを聞いたヘロデは、自分の王としての地位がその新しい王によっておびやかされるのではないかと不安になり、学者たちに頼みます。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。」赤ちゃんの居場所がわかったら、暗殺しようと企みました。学者たちは、キリストを礼拝した後、夢で「ヘロデのところに帰るな」というお告げを聞き、別の道を通って帰って行きました。そのことを知ったヘロデは激怒し、二歳以下の男の子を一人残らず殺させてしまうのです。クリスマスの喜びの歌が、ヘロデの命令によって自分の子が殺されてしまった母親の泣き叫ぶ声でかき消されてしまいます。マタイ福音書は、エレミヤ書の言葉の引用を記しています(マタイ2:18)。ラマというのは、ベツレヘム、あるいはその近くにあった古代の町でそこにラケルの墓はありました。ラケルはヤコブの妻です。ヤコブは、イスラエルという祝福された名前を神から与えられます。ラケルは、その「イスラエル」という名前をもつ男の妻ですから、イスラエル民族の母のような意味合いをもちます。そのラケルが子供を取られたから泣いていると記され、イスラエル民族の歴史、紀元前6世紀のバビロン捕囚の出来事に重ねられます。このラマはバビロンに連れて行かれたときの通過点であったと言われています。マタイ福音書はこれを、ヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせて、エレミヤの預言の言葉がここで実現しているとします。ラケルの泣き声が時代を越えて聞こえてくる。バビロン捕囚時代の母親の嘆きと、イエス・キリスト誕生直後にヘロデ王に殺された子供の母親の泣き叫ぶ声と重ね合わせます。ヘロデ王の幼児虐殺の命令は、力を持たない弱い立場のものに降りかかります。権力をもつ者の力が、罪のない弱い者の死と家族の嘆きを生み出すのです。
しかしこの虐殺事件の中で、かすかな希望が残されます。ヘロデ王の暴力、軍事力も、イエス・キリストを見つけ出して殺すことはできなかったのです。ヨセフの夢に現われ、「起きて子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこに留まっていなさい。」と告げられ、ヨセフはこの言葉通りにエジプトへと去ります。暗い現実の中で、幼子イエスは守られ生き延びるのです。いかに厳しく暗い現実の中にあっても、神の言葉に聞き従うとき、困難なことから逃れる道も備えられるのです。

今日の福音書日課には、3つの出来事が記されています。ヘロデの幼児虐殺事件、エジプトへの逃亡エジプトからの帰国です。マタイ福音書は「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と記すことによって、この3つの出来事はすべて旧約の実現であることを強調し、イエスは間違いなく救い主であることを明らかにしています。
幼子イエスを守るためにヨセフは大切な役割を果たしました。ヨセフに対して、主の天使は三度夢に現れて彼のなすべきことを示しました。最初の夢は、ヨセフに告げられたマリア懐妊の知らせです。ヨセフはマリアの妊娠を知り、誰にも相談できずひそかに離縁しようと決めていましたが、この命令に従う決意をします。そして二度目に現れた天使はエジプトへの逃亡を命じます。生まれたばかりの乳飲み子をかかえて、ベツレヘムからエジプトへと逃亡することは大変なことです。しかもこの赤ちゃんは自分の身から出た子どもではありません。ベツレヘムから異教の地エジプトへと逃げていかなければならないのです。様々な不安と恐怖をかかえながら、幼子とその母マリアを連れて、逃亡します。
エジプトの地で、主の天使は、再び現れてヨセフに告げます。イスラエルへの帰国です。しかしヘロデの息子アラケラオがユダヤの地を治めていることを聞き、再び命が狙われることを怖れて、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に落ち着きます。

ヨセフは、マタイ福音書では最初にだけ登場します。おそらくヨセフはイエス様が成人する前に世を去ったであろうと考えられています。このヨセフはイエス・キリストの母であるマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを自分の子として受け止め、その命を守るためにのみ登場したといってもよいでしょう。ヨセフはどういう人物だったのでしょう。当時の結婚適齢期は、男性は18歳前後とされていますが、聖家族の絵画に描かれているヨセフは、しばしば老人として描かれています。ヨセフとマリアの間に性的交渉がなかったということを強調するためです。コレッジョの「羊飼いの礼拝」はとても印象的な絵です。この絵で、ヨセフは、マリアの後ろで闇にまぎれそうな老人の姿で描かれています。しかもマリアやその子イエスには目もくれず、厩の中でマリアを乗せていたロバを引く作業に没頭しているように描かれています、まさにこれからエジプトへと逃亡の旅の準備をしているかのようです。
聖書の中に、ヨセフの言葉は一言も記されていません。彼はただ夢の中で天使によって告げられて神の言葉に絶対的服従する信仰が示されています。ただ黙って、神の言葉に従う姿です。神の救いの計画は、ヨセフの信仰の服従を通して成し遂げられました。イスラエルの地に戻ってくると、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレの町に行って住み、新しい家族の生活を始めます。イエス様誕生のあと、命を狙われ、苦境を乗り越えてナザレの町での生活を始めます。その命を守り、生活を築いたのはヨセフの信仰に基づきます。「彼はナザレの人と呼ばれる」ヨセフはナザレの地で父としてイエス様を養い育てます。ヨセフはベツレヘムからエジプトに向かうときも、異教の地、エジプトでも、またエジプトからイスラエルに戻って来るときもガリラヤでの生活を始めるときも、いつ命を狙われるか不安と恐怖の中で、母マリアと幼子を守るために自分を犠牲にしてつくしたことと思います。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ヨセフは主が後に言われた通りの生き方をした信仰者です。主の天使を通して告げられた神の言葉、神の計画を遂行するためにその言葉に従う生き方を貫き通しました。マタイ福音書は、ヨセフを通して、信仰者として生きる道を示されたのです。黙って主の言葉に従ったヨセフの信仰に倣う者となりたいものです。

恵みに満ちた クリスマス・・・そして明日へ!

13日、日善幼稚園のクリスマス礼拝、20日(土)二日市教会礼拝、クリスマスコンサート、21日(日)久留米教会、田主丸教会の待降節第四主日礼拝・祝会、24日(水)久留米教会クリスマス・イブ礼拝(17時、19時)、25日(木)二日市教会クリスマス礼拝、祝会、牧師として福岡に赴任して初めての一連のクリスマス行事を恵みのうちに終えることができました。久留米教会のクリスマス・イブ礼拝は、2回合わせて100人を越える方が参列してくださいました。タウン誌への記事の掲載、チラシのポスティングを行いましたが、少しは効果があったようです。初めて来られた方、久しぶりに来られた方、毎年、クリスマスだけ来られる方など、多くの方が来てくださり、主にある豊かな交わりのときを持つことできました。

二日市教会では1名の姉妹が受洗し、お連れ合いが移籍なさいました。久留米教会でも1名の姉妹が、他教派の教会から転入会いたしました。神学校4年の実践神学演習の授業で『小教理問答』をもとにした受洗準備教育のプログラムを作成しましたが、早速役立ち、両教会で10月から数回に分けて学びの会をもつことができました。私自身も、①ルーテル教会の礼拝について ②十戒 ③主の祈り ④使徒信条 ⑤聖礼典(洗礼、聖餐)について学び直す貴重な時間となりました。

新しい方が、信徒の群れに加えられるということは、教会員にとってもとても嬉しい出来事です。祝会では、みなさんクリスマスの喜びと共に、そのことを本当に喜び合うことができました。洗礼式、転入者のための祈り、移籍者のための祈りに立ち合うということは、自分自身の洗礼の想起の機会となります。主によって選ばれ、罪から解放され、新しい命が与えられていることを確信し、自らの信仰が強められるときとなります。洗礼式を執り行う私も緊張しましたが、喜びを共にできる幸いを心から感謝いたしました。

信徒の減少、高齢化、そして教職者の不足、教会の経済的厳しさ、ルーテル教会に限らず、日本中の教会、世界中の教会が厳しい状況にあります。一人でも多くの方が教会に来てくださるように、礼拝出席者が少しでも増えるように、今何ができるか問い、できることをできる形で一歩踏み出していきたいと思います。主の年2026年、地域に開かれた教会として、教会が宣教活動としてなすべきことを探して、共に歩み出してまいりましょう。

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