「その名はインマヌエル」2025年12月20日 待降節第四主日 説教要旨

第一日課 イザヤ書7章10節~16節
第二日課 ローマの信徒への手紙1章1~7節
福音書  マタイによる福音書1章18~25節


新約時代のユダヤ人は、一般的に早婚であって、男性は18歳、女性は12,13歳が適齢期とされていました。イエス様が生まれたとき、母マリアは16歳だったとされています。普通は結婚に先立って1年に及ぶ婚約の期間がありました。律法の課する義務は、婚約においてもほぼ結婚の状態と同じであって、たとえば婚約を破棄するためには、男性は二人の証人の前で女性に「離縁状」を渡さねばなりませんでした。婚約した女性が姦淫の罪を犯したと断定されると、既婚者の場合と同じく、石打の刑に処せられました。姦淫の罪は、特に女性に対して厳しいものでした。ですから婚約中のマリアが不義で妊娠したのであれば、それは死罪に当たることになりました。ヨセフは、生涯の伴侶としてマリアと出会い、婚約していましたが、ある日突然、マリアの妊娠が分かり、二人の新生活についての夢は壊され、奈落の底に突き落とされたのです。ヨセフは「正しい人」と言われていたということは律法に忠実な人だったので、彼はすでに妊娠している婚約者と離縁することを当然のこと考えました。その場合マリアには死罪が待っているということになります。ヨセフはマリアを裁判にかけさらしものにするようなことはとてもできず、神の前での正しさを貫きたい、一方マリアをかばい何とか将来に道をつけてやりたいと思い、「ひそかに縁を切ろう」と決心しました。ヨセフは誰にも相談できない出来事に悩み苦しみます。イエス様誕生の物語は、ヨセフの誰にも言えない、悩み苦しみの中から始まるのです。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。」この言葉は、イザヤ書7章14節からの引用です。処女降誕についてマタイ福音書はどのような意図を持って記しているのでしょうか。

まず、イエス様はマリアから生まれたということが明らかにされます。マリアという人間を通して人の子として生まれた、人となられたということです。
第二に、マリアはヨセフとまだ結ばれていなかったということは、つまり肉に属する父を持たないということです。マタイ福音書はイエス・キリストの系図から始まります。この系図はイエス様が「ダビデの子」としてのメシアであることを示しています。しかし血縁関係でみればダビデの血統に立つのはヨセフです。ヨセフとイエス様の間に直接の親子関係がないのであれば、系図が提示している「ダビデの子」という意味が崩れるように思われます。しかし「ダビデの子」であるヨセフがイエスを子とし受け入れ、その名を付けることによって、イエスは「ダビデの子」となり、系図の意図と聖霊による出生とが生かされることになります。天使は、ヨセフに向かって「恐れずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げ、マリアを受け入れるように告げます。そしてイエス様はヨセフの家の子として成長し、大工の父の仕事を手伝い、弟や妹の面倒を見、マリアを助けます。しかし彼の父は、人間的な父は持たず、天地の創造主が真の父であり、その独り子でした。
第三に「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」とあるように、イエス様の出生に直接関与したのは、聖霊であってヨセフではありません。聖霊による受胎を強調しています。聖霊は、創造的な神の力です。この聖霊が神によって働き、イエス様は、マリアを通して人の子として生まれました。神は創造者、支配者、審判者であり、人間は罪・滅びの中にあります。両者の間に越えがたい隔たりがあるにも関わらず、この越えがたい隔たりを超えることができるのはただ神のみです。神は自らこの越えがたい深い淵を乗り越えて、イエス様はマリアを通して生まれたのです。

「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』」という意味である。」
「インマヌエル」これは、マタイ福音書のみに記されています。イエス・キリストの誕生によって、神が私たちと共にいてくださるということが明らかにされ、イエス・キリストにおいて神が私たちとつながっていてくださることになったのです。
神の名は、古代から人類の間で唱えられてきました。古今東西を問わず、人間の存在するところには、神が存在し、神の名はあったということができるでしょう。しかし真の神がそこで崇められていたのではなく、人間が造った神であったり、恐怖から拝される神であったり、民族統一のシンボルとして祀られる神などがこの世には溢れていました。特に日本古来宗教は、すべてのものに神が宿っているという考えでした。しかし今、お生まれになった主イエスは、神と共にいます方であり、イエス様の働きも言葉も、神と共にいますことを明らかにするためになされるものであったと言うことができます。
「その子をイエスと名付けなさい」「イエス」という名はユダヤの紀元2世紀ごろまではごくありふれた名前でした。旧約聖書の「ヨシュア」という名前が70人訳聖書で「イエス」と訳されました。ヨシュアとは、「主は救い」という意味があります。「イエス」という名前は「神は私たちの救い」という意味だということです。ヨセフはマリアを妻として迎え入れようかと迷っていたときに、天使の「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉を聞き、天使の言う通りにするのです。

私たちは、マリアのように、背負いきれないような悩み、苦しみを強いられることがあるかもしれません。またヨセフのように、誰にも相談することのできない悩みを抱え込むこともあるかもしれません。しかしそのようなときに私たちはイエス様と出会い、「神は私たちの救い」イエス様は私たちを苦しみから救い出してくださいます。そして主なるイエス様は「インマヌエル」、いつでも、どこにいても「我々と共にいてくださる」のです。イエス様は、十字架によって私たちを罪から解放され、救いの道をひらいてくださいました。そして復活のイエス様は昇天される前に、弟子たちに語ります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」マタイ福音書は、「インマヌエル」で始まり「インマヌエル」で終わります。主はいかなるときも世の終わりまで、私たちと共にいてくださることを約束してくださったのです。特に私たちが、背負いきれないような負担を強いられた時、誰にも言えないようなひそかな悩みを抱え込んだとき、弱いときにこそ私たちと出会ってくださり、「インマヌエル」私たちと共にいてくださるのです。

 

ページェント 聖誕劇のこと

多くのキリスト教学校、幼稚園、保育園ではクリスマス礼拝の中でページェント(聖誕劇)を子どもたちが演じ、主に捧げます。私が勤務していた小学校では毎年3年生がクリスマス賛美礼拝の中で、演じました。ナレーターの聖書朗読と讃美歌のみで台詞はなく動作のみで演じます。受胎告知、ベツレヘムの村、イエスの誕生、羊飼いへの告知、東方の学者、馬小屋への訪問の6場面を演じます。900人収容の大きなホールで演じるため、30年ほど前に、図工の先生が中心となり、先生方全員が関わって大道具を作り、その後は場面によっては作りかえたところもありましたが、修理をしながら使い続けていました。衣装も学校保管していますが、何年かに一度は少しずつ作り変え、大切に使っていました。当日は3年生だけではなく、讃美歌は学年ごとに歌い、先生方は児童の指導にあたるだけではなく、道具の出し入れ、照明、スポットライト、音響を担当して、全員で作り上げるページェントでした。最後の場面では3年生児童全員がペンライトを持ち、舞台には、ベツレヘムの赤星を中心にLED豆電球の星が輝きます。毎年同じように演じるのですが、毎年感動を覚えます。

日善幼稚園でも13日(土)のクリスマス礼拝で年長組が中心となり園児全員で聖誕劇を主に捧げました。日善幼稚園には、外国籍の園児が多いのですが、どうしても日本語の台詞を覚えられない園児は英語で台詞を言い、発達特質のある園児は、カードで場面の変化を見ながら演じました。保護者の聖歌隊が賛美の奉仕をしてくださいました。本番は多くの保護者が来てくださり、子どもたちは緊張と不安の中で、ドキドキと心臓の鼓動が聞こえてくるようでしたが、素晴らしい聖誕劇を主に捧げることができました。一つのことをやり遂げた子どもたちは本当に輝いていました。子どもたちだけではなく、そこにいた全ての人に、そして世界中の人々の心に主は来てくださいます。クリスマスの喜びの知らせが、そして希望の光が届きますように。「インマヌエル」主は我々と共におられます。

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