第一日課 エレミヤ書 23章1節~6節
第二日課 コロサイの信徒への手紙 1章11節~20節
福音書 ルカによる福音書 23章33節~43節
教会暦では、今日の主日が「聖霊降臨後最終主日」1年の終わりで、来週から待降節(アドヴェント)新しい1年が始まります。今日は「永遠の王キリスト」主日とします。
旧約の日課、エレミヤ書では、
見よ、このような日が来る、と主は言われる。/わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。
彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。/彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。
預言者エレミヤは、一度は切り倒されたダビデの木の株から一つの若枝が生じる、つまり救い主、メシアを送ることを預言します。私たちは、この預言を、イエス・キリスト誕生の預言と理解します。ここで記されている「王」は我らの救い主です。
使徒書の日課、コロサイの信徒への手紙1章15節から20節は、「キリスト賛歌」と言われ、メシアであるキリストがどのような方であるか記しています。「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方」「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられている」「御子はその体である教会の頭」「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方」と語っています。
今日の福音書日課は、イエス様が十字架につけられる受難の場面です。私たちが聖書から聞く「永遠の王」であるイエス様は、一般的な世界の王様のイメージとは全く異なり、罪を犯した犯罪者とされています。イエス様は犯罪者として、されこうべと呼ばれる処刑場で、他の犯罪者と共に十字架につけられます。十字架刑は、死刑のなかでももっとも重い処刑、残酷な刑罰であったと言います。十字架刑は、ひじが肩より上に持ち上げられることにより、呼吸がしにくくなり、体力が限界をむかえると、呼吸ができなくなり、最後は窒息してしまう窒息死です。絶命するまでに数時間あるいは数日かかることもあり、肉体的な苦痛に留まらず、人々の目にすべてがさらされる精神的な苦痛も課せられます。イエス様は十字架上で3時間という長い時間苦しまれた後、息を引きとられた、と聖書には記されています。
34節、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」イエス様の十字架上での最初の言葉は、父なる神に向かって祈る言葉です。イエス様の教えを聞くために集まってきた群衆は、イエス様を十字架につけて死なせようと叫び声をあげ、そして今や立ち去り、イエス様の声を聞かれる方は父なる神お一人になりました。イエス様は、十字架上の死の間際においてなお、神に敵の赦しを請う祈りをするのです。「自分が何をしているのか知らない」彼らに対して、イエス様は赦しを祈ります。まさに敵を愛することをお示しなるのです。反論、非難、告発を叫ばれてもおかしくない状況の中でイエス様は敵の赦しを請う祈りをされます。イエス様は「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とお教えになられました。十字架の上で主イエスは、最大の敵、自分を十字架につけて死に至らしめた者のために祈られたのです。
議員たちは「他人を救ったのだ。もし自分がメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と嘲笑います。兵士たちも「自分を救ってみろ」とイエス様を馬鹿にします。さらに犯罪者の1人が、イエス様に向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言いました。するともう一人の犯罪者がこう言ったのです。「お前は神をも恐れないのか。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことはしていない」彼は「自分が死刑の判決をされたことは、当然のことと理解し、刑罰を受け入れています。彼は「助けてくれ、十字架から降ろしてくれ」ということはなく、このまま十字架の上で死ぬことは仕方ないことだと受け入れ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言います。彼は、間もなく息絶えてしまうであろうイエス様を見て、この人は間違いなくメシアであり、自分を救ってくれる存在であると理解していました。苦しみもだえる弱いイエス様の中に、目には見えないイエス様の姿、「永遠の王」であるイエス様を見出し、この方は死んでしまっても終わりではない。死を乗り越えて世界を統治される方だ、この方こそ「永遠の王だ」、地上だけではなく、天上にもつながる神の国へと、すべての人を招く神の子であると確信していたのです。イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この犯罪者は、自分はこのまま十字架の上で死んでもしかたない罰を犯している。しかし、たった一言、思い出して欲しいと願ったことにより、救いを得ることができました。イエス様の苦しまれる姿を通して、その姿の中に「永遠の王」であるキリストを見たのです。
イエス様がここで彼らと言われているのは、「自分で何をしているのか知らない」者、「彼ら」こそ「私たち」に他なりません。私たちは、自分中心に生きてしまい、何をしているのか知らない者です。人を裁き、赦すことが出来ない。人に対して怒りを抱き、侮辱し、嘲笑い、人の弱いところを馬鹿にする。日々そのようなことの繰り返しの中で生きています。十字架の苦しみの真っただ中にあるイエス様を侮辱する議員たち、馬鹿にする兵士たちと何ら変わりありません。そのような私たちに対して、イエス様は究極の愛を示され、「赦して下さい」と祈ってくださるのです。私たちは、イエス様の赦しによって生かされ、イエス様の命の中で生かされている存在です。私たちの方から「赦して下さい」と願い求めなければならないのに、イエス様が私たちのために、御自身の命を犠牲にし、十字架の死と復活によって、イエス様の命の中に、イエス様の救いの中に私たちを入れてくださいました。私たちは目に見える世界に支配され、罪の世界を現実と思い込み、苦しんだり、憎しみを抱いたり、人を裁いたり批判したりしてしまう。しかし私たちは、イエス様の愛によって、赦しと救いの中に置かれているのです。犯罪者が「私を思い出してください」と十字架の死を受け入れつつも主に救いを求めたように、「永遠の王」であるキリストに「わたしを思い出してください」と願い、祈ることのできる者でありたいと思うのです。
果物収穫の恵み
田主丸教会は、3月までは前任の西川牧師が牧師館に住んでおられましたが、4月からは、1週間に一度、礼拝のときにだけ集まる場所となりました。夏場は特に草が生い茂り、柑橘系の樹木(甘夏、橙、デコポン)などがかなり大きくなり、生け垣の草も高くなり見通しが悪くなっていました。近所の方も不安になられるのではないかと思い、信徒の方に、まず生け垣を撤去していただきました。しかし根が深く、根こそぎ抜き取ることは素人では難しいことが分かり、思い切って業者を入れて整地することにしました。
財政的にどこまで出すことができるかを皆さんで話し合い、一定金額内でできるところまでやっていただきたいと依頼したところ、想像以上に木の伐採、整地をしていだくことができ、駐車スペースが広くなり、駐車しやすくなりました。甘夏みかんの木は伐採してもらいましたが、橙、デコポンはたくさんの実をつけています。隔年ごとに豊かな収穫を期待できるそうで楽しみにしています。
先週、田主丸教会の礼拝で、ご近所の方からカボスとザクロをいただきました。ザクロは、日善幼稚園の子どもたちに礼拝のときに見せて、少しずつ子どもたちと食べました。ザクロを初めて食べた子どもたちは、食べられるの???という顔をしていましたが、「美味しい!」「種しかない」「食べていない」「赤い汁だけ?」という不思議な反応でした。
カボスは、絞って、酢を入れて保存するように教えていただきました。カボスだけではなく、レモン、ライム、シークワーサーなど、色々な柑橘類をいただくことが多く、東京ではスーパーで購入していたものを、収穫したものとしていただくので驚いています。東京の友人がジャムづくり、特に全国各地の柑橘類を集めてマーマレードつくりを研究し、ロンドンで開催されているマーマレード世界大会にも出品して金賞を受賞しています。カボスはその友人に宅急便で送りました。美味しいジャムになって戻ってくることを期待しています。収穫の喜びを感謝するこの季節、九州ならではの収穫の恵みに感謝しています。