第一日課 ヨブ記 19章23~27a節
第二日課 テサロニケへの手紙Ⅱ2章1~5節、13~17節
福音書 ルカによる福音書20章27~38節
イエス様は、エルサレムへといよいよ上って行かれ、大勢の民衆から歓喜の声で迎えられます。境内で教えられるイエス様の様子を見て、祭司長、律法学者、民の指導者たちは、何とかしてイエス様を捕らえ、殺そうと謀りますが、民衆が夢中になって話に聞き入っている様子を見て、何もできないでいます。そのような状況の中で、今日の日課「復活についての問答」というタイトルが付けられている場面となります。
今日の福音書日課のイエス様の論争相手であるサドカイ派は、ルカ福音書の中に登場するのは、今日の箇所だけです。宗派はファリサイ派よりも規模は小さかったのですが、影響力は強かったようです。というのは、ほとんどのサドカイ派のメンバーは、貴族階級に属し、祭司の家系であり、祭司長を出していました。ファリサイ派とは異なり、古い伝統を現在の生活に適合させる必要はないと考え、旧約聖書の「モーセ五書」と呼ばれる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記しか神の言葉と認めていませんでした。モーセ五書には、死人からの復活記事はありませんから、死者からの復活を認めませんでした。一方ファリサイ派は、彼らが考える「義人の復活」を認めますし、モーセ五書以外の預言書や詩編なども神の言葉として受け入れていました。その他にも両者さまざまな違いはありますが、「イエスという男は自分たちの社会を根底から破壊する危険人物である」という認識においては一致しており、何とかしてイエスを捕らえて殺そうと謀っていたのです。
サドカイ派の人々がイエス様に尋ねます。申命記25章に「家名の存続」について記されているように律法では、家名を存続させることを重視していました。ですからこのような問答が始まるのです。「7人の兄弟がいて、長男が妻との間に子がないまま死んでしまった。妻は次男と結婚したが、同じ結果となった。七男まであり、最後に妻も死んだ。もし復活があるのなら、その時、この女は誰の妻になるのか」イエス様の返答によっては、律法違反になる、律法違反となれば、イエス様を捕らえることができると考え問うたのです。
イエス様の返答は、死後のことは、人間には分からない。分からないことを人間が勝手に決めるべきではないということでした。めとったり嫁いだりすることは、天上の制度ではない。復活の命に生きる者は、やがて歳をとって死ぬ命ではなく、天使に等しい命に生かされると答えられます。
イエス様はさらに続けられます。「死者が復活することは、モーセも『柴』の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している」出エジプト3章に記されているモーセの召命の場面で、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」彼らの神は、永遠に生きて働かれる神であることを繰り返しモーセに語ります。奴隷として厳しい生活の中に置かれていた民は、モーセに率いられてエジプトを脱出します。イエス様は、神は生きている者のためにいつでも、どこにいても共にいて働かれる神であるということを示されました。
イエス様は「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。全ての人は、神によって生きているからである」と言われます。「全ての人は神によって生きている」というのはどのような意味なのでしょうか。
原語をそのまま訳すと「全ての人は彼に生きるからである」となり、「神によって生かされている」と取ることもできますし、「神に向かって生きている」と取ることもできます。
それでは「全ての人」とは何をさしているのかいうことから考えてみましょう。「全ての人」ですからこの地上に生きている全ての人です。神を信じている人も、信じていない人、他の神を信じている人も含めた全ての人です。人間は神によって造られた被造物であるから、「神によって生かされている」「神の意思に従って生きるべきである」にも拘わらず、自分の意思で生きている、主体的に生きているように思い込んでいる。「神に生きる」ということは、神の被造物であるがゆえに、神によって生かされていることを想い起させていると理解して良いのではないでしょうか。死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。生きている者は、神の被造物として、神によって生かされているということです。
使徒書の日課、テサロニケの信徒への手紙には次のように記されていました。「神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。」わたしたちが道を失い、迷ってしまっても、あるいは自分の力で歩むことができる、主体的に生きていると思い込んでしまったとしても、神が私たちを選び、救われるべき者としてくださった。そのために主イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。主によって結ばれている私たちは、絶えず主の愛を受け入れ、主の愛によって生かされていることを信じ、神の愛に生きていくことが求められ、示されているのです。主にすべてを委ね、主の愛に生きるものとなりたいと願い求めてまいりましょう。
全聖徒主日・召天者記念礼拝を終えて
先週の主日礼拝は、全聖徒主日・召天者記念礼拝でした。
約1か月前にご遺族にご案内のお手紙をお送りしました。その後、何人かの方からは、お電話やお手紙をいただいたり、献金をお送りいただいたりしました。先に神様のみもとに召された方々のお写真を飾り、二日市教会ではお名前を読み上げていただきました。聖餐式は、環の向こう側で、聖徒たちも共に聖餐の恵みに与っていることを信じて執り行います。日ごろ教会に来られない方、またご遺族の中には、全く教会とは関わりのない方もおられますが、故人を通して教会につながってくださり、共に礼拝の恵みに与ることができるというのは、喜びの礼拝でした。
私は4月から二日市教会に赴任してまいりましたので、殆どのご遺族は初めてお目にかかる方でした。故人は全く存じ上げません。1年に1度、このときにしか来られない方もおられたことと思いますが、お名前もわからないまま、ご挨拶程度しかできなくて申し訳なかった思いが残りました。母教会の大岡山教会では、この日の週報には、故人のお名前だけではなく、どのような方だったのか、どのような教会生活を送られたのかが記されていました。「○○さんのお母様」など、教会員との関係も記されていました。お目にかかったことがない方でも、短い紹介文からどのような方だったのか、想像することができました。中には、遠方から教会に来て下さった方もおられたことと思います。この日の礼拝に向けて、古い教会員の方に、もう少しどのような方だったのか伺っておけばよかったと反省しました。
二日市教会の礼拝では、聖餐式のときに、先に聖餐に与かられる方に配餐をし、その後、祝福をしましたが、(大岡山教会方式を採用しました)一緒に並んでいただくべきだったのではないかとこれも迷うところでした。1つ1つ、新任牧師は、直前になってあれ?と悩むことが多いのです。
いつも礼拝に出られている方とも、ゆっくりお話しする時間もなく、またしばらく来られていない方の訪問も十分にできていません。ウィークデイに二日市教会にいることがないのも十分な牧会ができない一因だと思います。教職数はますます減る一方で、これから全国的にも兼牧は当たり前となります。何を大切にしていくのか、問われているように思います。