第一日課 ダニエル書7章1~3,15~18節
第二日課 エフェソの信徒への手紙1章11~23節
福音書日課 ルカによる福音書6章20~31章
今日は、全聖徒主日です。11月1日が全聖徒の日、神様によって聖徒とされたすべての人たちを憶える日とされているので、この日に最も近い11月の第一の主日を「全聖徒主日」として守っています。この礼拝では、多くの教会で、すでに神様のみもとへ召された方々のお写真を飾り、あるいはお名前を読み上げ偲びます。地上の人生を終えた兄弟姉妹は今や神様のまことの平安にあり、また聖餐の環の向こう側で聖徒たちも共に与っていると信じます。ご遺族も集う慰めと喜びの礼拝です。ご遺族の方々も多くご一緒に礼拝を守ることができ嬉しく思います。ご遺族の方が、先に天に召された方を通して、教会につながってくださり、こうして共に礼拝の恵みに与ることができるというのは、まさに喜びの礼拝であることを感じます。
ご家族にとって、愛する方との地上での別れは時を経ても寂しく、お写真を見ながら、ご家族の生前のご様子、懐かしい出来事を想い起されていることと思います。そしてその信仰生活、教会生活についても思い出されていることでしょう。
私たちは誰でも幸せでありたいと願い、幸せを望んで生きています。しかし、イエス様は、私たちが求めている富を持つこと、満腹したり、笑ったり、すべての人から褒められたりすることは不幸だとおっしゃるのです。私たちの望んでいることとイエス様の視点が全く正反対の方向に向かっているということです。これはなぜなのでしょうか。
ルカ福音書の「幸いと不幸」というタイトルがつけられている今日の福音書日課は、「貧しい人々は幸いである」という言葉から始められています。マタイ福音書の山上の説教に記されている言葉は、「心の貧しい人々は幸いである」と記されていましたが、ルカ福音書の「貧しい人」とは、「物質的な貧者」を指しています。しかも無一文で、物乞いをするほかに生活手段をもたない極貧者を意味する言葉が使われています。「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とありますから弟子たちに語られている言葉です。財産も家族も仕事もすべてを捨てて、イエス様に従った弟子たちにとっては、この言葉は、自分たちの決断を評価された言葉とも受け取れますが、あとに続く言葉「神の国はあなたがたのものである」という言葉に注目すべきです。貧しい者たちが幸せなのは、貧しさ故ではなく、彼らが神の国に属しているから幸せだということです。イエス様が「金持ちが天の国にはいるのは難しい」と言われているように、イエス様は貧しい者に福音を伝えるために神様から遣わされました。「貧しい者」と言われているのは、無一文で物乞いするしか生きるすべが無い者というよりも社会的弱者一般を意味しているとことであり、弱い者のために、イエス様はこの世に遣わされ、この世に生きられたのです。
「貧しい人々」の幸いに続くのは「今飢えている人々」です。マタイ福音書では「義に飢え渇く人々」と表現されているのに対して、ルカ福音書は明らかに現実の飢えについて語ります。続いて「あなたがたは満たされる」とされています。「今」という限定されたときは飢えていたとしても、来るべき将来、神の介入によって飢えることはなくなるということです。
三つめは、「今泣いている人々」に向けられます。「泣いている人々」ということは悲しみ、苦しみ、悩みの中にある者ということです。「あなたがたは笑うようになる」と言います。今悲しみ、苦しみの中にあったとしても、必ず笑うようになる、悲しみ苦しみは喜びに変えられることを約束してくださったのです。
続いて「迫害されている者たち」に向けられます。「人々に憎まれるとき、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」と3つのことが並べられています。「人の子」とは、イエス様ご自身のことです。ですから「人の子のために」ということは、イエス様のために迫害されるということであり、イエス様の弟子であるがために、迫害される対象となります。イエス様の弟子であるがゆえに人々から憎まれ、ののしられ、汚名を着せられる、迫害に陥ることがあってもそれは「幸いである」である、その日、迫害を受けたとしても、それは「喜び踊る」こととなると語られます。
イエス様が「幸いである」とされたことは、私たちの望みとは正反対のことに向かっているのです。
イエス様の誕生のことを考えてみましょう。宿屋には泊まるところさえなく、馬小屋でしかも飼い葉おけに寝かされました。そしてイエス様の誕生、人々が長いこと待ち望んでいた救い主メシアの誕生をいちばん最初に告げ知らされたのは、人々から蔑まれ、汚れた者とされていた羊飼いでした。イエス様こそもっとも貧しい姿で誕生されたのです。
イエス様はその話を聞くために集まって来た大勢の人々のために、空腹のまま解散させることはなさいませんでした。5つのパンと2ひきの魚で、5000人すべての人を満腹にすることが出来るお方でした。人々はイエス様に分け与えられた食事によって、心も身体も満腹になり、満足することができました。
イエス様は、多くの病気の人、足の萎えた人、目の見えない人を癒されました。それまで病気のために、汚れた者とされて共同体からも外され、人々から蔑まれていた人々、それこそ笑うことが無かった人々に手を差し伸べられ、その病気を癒され、新たに生きていく力を与えられたのです。
貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々を幸せにしてくださるのは、そこにイエス様の働きがあるのです。イエス様こそが、弱っている者たちのところにいてくださる方なのです。
すでに神様のもとに召された信仰の先輩のお写真を飾り、おひとりおひとりのその信仰生活、教会でのお働きを想い起します。この全聖徒の日、召天者記念礼拝において、信仰の先達の願い、祈りを受け止め、私たちにできることは何か問うてまいりましょう。弱いところであっても、むしろ弱いところにこそ、主は必要な形で働いてくださいます。すべてを主に委ねて、主と教会に仕えてまいりましょう。
二日市地区では、近隣の7教会で年に4回、地域牧師会を持ち、5月から声をかけていただき参加しています。10月の例会は、日本バプテスト連盟筑紫野二日市キリスト教会で行われました。各教会の近況報告、イベントの紹介などを行っています。筑紫野二日市キリスト教会の加来国夫牧師は、JAから突然連絡があり、葬儀をキリスト教式で行いたいと希望されている方がいるのだが、司式を頼めないかと依頼を受けたそうです。福岡女学院を卒業された方の葬儀で、女学院在学中に二日市の教会に通っていたことがある方だということです。加来牧師は、突然の依頼で戸惑われたけれど、故人と家族の気持ちを尊重して引き受けられ、葬儀を無事終わり、そして日曜日の礼拝に、御家族が出席してくださったそうです。しかし葬儀を終わられてからよく考えてみると、筑紫野二日市キリスト教会は創立40周年を迎えたばかりの教会なので、まだ故人が女学院に在学していたころには、教会はなかった。故人が通っていた教会はおそらくルーテル教会ではないかということでした。本来なら私に依頼すべきだったのかもしれないと報告されました。本人も御家族も教会に通っていなくても、故人の気持ちを尊重して、葬儀をキリスト教式でと希望される方がおられるということは、とても嬉しいことです。先日、私も納骨式を執行させていただきましたが、葬儀を通して、御家族が教会に来られる、キリスト教に触れられるというのは主の働きを感じます。
牧師会の最後には、それぞれの祈りの課題を出し合い、祈り合う時間を持ちました。近隣の教会との交流は、たとえ教派は違ってもそれぞれの教会の地域宣教の活動を知ることもでき、貴重な時間となっています。講演会や、特別集会の案内もお互いに交換しています。こども食堂や夏祭り、音楽会など地域の方々に呼びかけた活動を行っている教会もあります。バプテスト派、ペンテコステ派、単立の教会など教派によって、礼拝形式の違いなども知るきっかけとなります。教派を超えて、理解を深め、協力体制をとっていくエキュメニカルな活動は、これからのキリスト教会に求められていくことだと思います。